本日は、『無情』についてお話いたします。これは常に「無」の状態であることですね。今という瞬間以外は「無」であるということ。既に過去は忘れることであり、未来についてはまだ思わないこと。ですから、ただ今を感じるだけでいいのです。たとえば「桜」の木があります。春は満開の花が咲きますが、いずれ散り、葉も落ちて、冬には幹と枝だけになってしまいます。姿がどんどん変化をしていき、同じ「桜」の木ではありますが、常に同じ状態はありません。一つの形であるのではなく、変化をしていくことが自然なのです。また、川の水も同様であります。もし流れていれば、今、見た水は、次の瞬間には下のほうに流れてしまいます。
同様に自分の心についても、一つの状態(姿、形、思いなど)で縛ることなく、どこにも置かないようにすべきであります。または執着しないことが大事です。「あなたの心は、どこにも置かない」、これが大切なのです。頭の中を空っぽにして、雑念を持たない状態にするよう瞑想(座禅)の練習をしてより「無」の状態に近づけることです。そうすれば必ず社会の中でやくに立ちます。

「少林寺気功」の動功も同じです。どんどん次の型に進んでいく(流れのように)ことが動功であります。動作が止まってしまい、同じ動作のままでいたら成り立ちません。一つひとつ動作にこだわってしまったら、先に進みません。一つの動作が次に繋がり、さらに次に繋がっていくのです。前の動作を頭の中から捨てなければいけません。今の型(動き)だけに集中しなければなりません。次の動作で、前の動作を捨てていくことが『無常』なのであります。
日常生活の中でも、良い事も悪いこともどんどん捨てていかないといけません。物事に執着せず、無常になることを勧めます。たとえば、向こう岸に行く場合、川を渡るためには舟が必要となりますが、渡ってしまったら、もう舟は必要ありません。
『無常』でいれば、今の自分にとって必要なものだけが残ります。もし今はなくても、自然と必要なものだけが入ってくるのです。