悟りは人間の本来の心です。もともとのものです。
禅は奥深さと同時に厳密な哲学も入っています。
ただ遊びのものではありませんから。

禅の心の悟りになるための修行は、表面上は
特別な様には見えないかもしれませんが、歴史からの禅師は
修行によりまとめています。結果は簡単にでるものではなく、
精神の静養も浅くありません。禅はもともと大自然の心
という考えですから。大自然は晴れの時もあるし、
曇りの時もあるし、雨の時もあります。永遠の晴れでは
ないです。もし雨も雲もない永遠の晴れだったら、
生きていることは感じられないでしょう。

修行の人は、黙ったままや石の様に硬い人だとは限りません。
そういう部分はその人のひとつの側面です。
例えば、仏像の顔はすごく厳しいものもあります。
これはただその人の厳しい修行の一場面ですよ。
もしあなたの考えが、すべての修行者は必ずこうでなければ
ならないというのなら、それは間違いでしょう。

五百羅漢には、いろいろな顔がいっぱいあります。
みんな同じではありません。ある羅漢は口を開けて笑っています。
ある羅漢は怒っています。棒をもっているもの、ライオンとか
虎に乗っているもの、目を大きくして怒っているものもあります。
いろいろな姿があります。これはひとつの羅漢のいろいろな
違う表現です。だから修行者の心もただ厳しい一面だけではありません。
修行者は、必ず声は丁寧で落ち着いている、そういうイメージは
大きな間違いでしょう。皆はそれぞれに声があります。怒る声や
喜んでいる声もあります。現実に生きていますから、
堅いだけの形ではありません。

だから悟りとは、人間の心の一番単純で一番解放の原始状態を
いいます。そういう開拓がされたら本当に悟りの状態ですから。
それは、大きな仏様でも禅宗でも密教でも浄土宗でも、
偉大な修行ができた人は、心本来の状態になり悟ります。

このことについて皆さんも気づいてみてください。