只管打坐は、曹洞宗道元の初めて作った言葉。
この説明のために先に、昔の道元禅師の話をしましょう。

中国の宋の時代、道元は中国に来る前には、臨済宗の祖師、栄誌禅師のもとで禅を習っていました。
でもその時には悟りではありませんでした。
悟りは栄誌禅師の弟子である明全禅師のところで修禅しているときでした。
明全禅師は当時の臨済宗の素晴らしい立場の人です。

禅を習う時の常識のひとつで、修行の人が悟ったら悟りのレベルの境界も平等ではなく、
その禅師は三つの段階があります。まず、悟りになるかどうか、
次はその人は自分の祖門心法をもらいました。
最後は、師は弟子の中からただひとりの天縫の継承者を指定します。
当然にその日本の臨済宗の明全禅師は、栄誌禅師指定の臨済宗の継承者ですから、
その修行のレベルは結構かなり高いです。道元は、その明全禅師のもとで9年間学びました。
20何歳の時に悟りになりました。そして明全禅師の認可になります。
でも道元は内心ではまだ不安があります。
この不安に対して明全禅師はもっと指導することはできませんでした。

この状態が2年続き、道元は自分の不安を解消するために、
24歳の時に中国に来て禅宗の源流を探しました。そして全体の生命で中国禅の中に入りました。
宋の時代に日本から中国にくるのは大変なことでした。
船などの輸送も発達していないし、台風や津波の心配もあります。
だから10回の航海のうちで2、3回つけばいい方でした。
当時、中国に来る人には鑑真和尚の様にかなりの強い決心がないと難しいことでした。
例えば、山奥の中でひとりの修行をする人がいます。
でも山の中にはもうひとつ、人を食べる虎がいます。
どうします。あなたは行きますか?昔の修行には命懸けの決心がありました。

でも道元は、自分の心の不安をとりのぞいて完全に安心するために、
命の危険も覚悟して船に乗って中国に来ました。
この船は商業船でいっぱいの椎茸を載せて中国でこれを売ります。
当時の中国では日本産の椎茸はすごく人気でした。
船が港に入るとお寺から僧侶が椎茸を買いにやって来ます。
その時に、60何歳という年をとったお坊さんが20~30kmの遠い道のりを歩いてきました。

道元はその中国の年のお坊さんに会って挨拶をしました。
「先生、あなたは年輩なのに、なぜ坐禅や説法や講経説道をしないでこういう雑用をするの?」
この年輩の食事の仕度をするお坊さんはすぐに答えました。
「あなたは遠い日本からきて、わたしのような僧がどういう坐禅や道の修行するかなどは、
まだわからないでしょう。」
実際、道元は日本ではかなりの悟りになりました。
でもせっかく中国に来て、まだ禅の中の祖師にはまだ会っていません。
ここで、このお坊さんに会って、一度目の棒喝になりました。
これは頭に重く打つような感じです。この時、道元は中国の禅の確かに深いところを感じました。
自分は特に間違いとは思っていません。でも何となくそのお坊さんの話しから、
自分の浅いところを感じました。
なぜ必ず自分説得して、皆さんに経を教えるはこれだけは道のことなのですか?
実際、大乗仏教の考え方では、すべての講経説法は遊びのものです。
その中にどこに仏教の深さ、そんなに法を他人にあげるのですか。
本当の修行者は、自分はやるべきことをやり、受けるべき苦しみを受ける、
それだけです。坐禅や説法などだけが修行ということではありません。
道元は修行も悟りも経験ありましたから、このことは元々解かっていました。
ただ、その時に潜意識の中にはまだ入っていずに、理屈で解かっていただけでした。

お坊さんが答えた時、道元は聞いてすぐにわかりました。
自分のこの言葉には、修行者として正しくないところがあります。
だからその時に道元は、心からの気持ちで、このお坊さんのお寺にもっとたくさん住んで
いろいろ教えて下さいと言いました。
そのお坊さんは、自分は忙しいですからと言いました。
「この椎茸を買ったら、また20~30kmの距離を歩いて帰ってご飯を作ります。
次の縁があったらまた話しましょう。」
これは、道元が中国に来て第一回目の棒に打たれた話しです。
道元は悟りになっていましたが、実際は心の中の自分の浅さが初めて見えました。