『逆境と病気』

第一のテーマは青年時代の修業。日本では修業という言葉が流行っている。初めは何も知らなかった。なので、憧れて始めたわけではない。

正直、初めは何をやっていたのかもわからない。でも、実際、少林寺に入って、日本に来て、振り返ってみたら気付いた。今までやってきたことはすごい修業!自分自身初めて分かった。日本に来ることで気がついた。私が中国にいた頃は、修業は人気のない時代。逆に相手を倒すことが第一の目的となる時代。こういう時代だからこそ私は修業が出来た。私の話は参考にしても、多分真似はしない方が良い。私の時代の背景まで話をしますから。昔は昔であって、自慢でもなく、ただの参考の話として。私が修業していた頃は、文化大革命の時代。小学2年生の時、学校代表としてスピーチするなど学生が選ばれることがあった。優秀学生として初めて選ばれる機会があったが、家庭条件など全部書かなければならなかった。出身を書かなければならないが、私の出身ではなく、両親の出身。母親は、地主。文化大革命の頃、地主の身分は、黒五類。普段の授業ではあまり話をしないことも話をします。私という人、育ってきた時代などについても理解して、理論ばかりではなく、骨と肉と血液などがついていた方が良いのではないかと思います。母親の出身の欄に地主を記入した。書いたら、元々私に決めるはずで選ばれていたが、母親の出身が地主と言うことだけでダメになった。もちろんその時は、まだ2年生で小さいですから。中国では日本のように相手に気を遣って丁寧に断ることはしない。あなたはこれではダメです、と言われた。小さいからはっきりは分からなかったが、多分、自分は他の人とは違う家に生まれたのだと感じた。その後、色々な事があった。勉強は優秀だけど、自分が持てるはずの権利などは実際にはなかった。2年生の頃から。でも、本当の修業は、もちろん、少林寺に入ったという形や何をやり始めたなどの「始まり」があるが、ある意味、ここから始まったのではないかと思う。本当の修業の始まりを理解するのは人生の中で大切。逆境の中においても自分の心がどうすれば良いのか考え、もっと努力すること。私が住んでいた家は、団地や借家などではない。社宅に住んでいた。文化大革命が終わる頃までは家賃もなかった。住んでいる近くの人は、皆同じ会社の人の子ども。黒五類だからといって身分を隠すこともない。学校も行けず、主婦などは字もかけない人もいた。周りの人はそういう人が多かった。妹とは2つ歳が離れている。両親は大学まで行った。当時は、珍しかった。石を投げられることもあったが、こういう環境の中で強くガマンしていく中で、何かあっても簡単なことで曲げない精神、性格が育っていった。ただ、その時体は弱かった。自分の不孝、運命かと思った。でも、今は尊敬されることもあり、神様が昔苦しい大変なことがたくさんあったから、今は、歳を取ってからは運勢を上げて良くしてくれたのかも知れない。私たちの人生の中に必ずバランスがある。こちらですごく悪い、次のところではすごく良い。私の人生からもそれは強く感じる。次の年。小学3年生の時、もっとひどいことがあった。病気になった。元々体が弱いし、中国のその頃の時代の住宅等の条件はすごく厳しい。1回目の引っ越しの時に家族4人は土の壁で屋根は雨漏りがして壁から雨水が垂れてくるところだった。中学校へ入る位の時にレンガの壁の部屋に引っ越した。部屋の広さは、16㎡。4人家族。父親、母親、私、妹。1つの部屋で。次の引っ越しの前に弟が生まれた。10何歳年下。5人で16㎡。部屋には壁側に全員分のベッドがあった。そういう空気も良くない状況の中での生活。当然に父親も母親も体は良くないし、裏は鉄道が走っていた。部屋と鉄道の距離は数m。近いから振動はすごい。初めは夜眠れない。夜は普通の列車ではなく、機関車がすごい音を立てて走って行った。部屋の中にも煙が入ってきた。そういう空気の悪い状況で父親の肺結核がうつった。日本ではあまり大したことのない病気。でも、当時はあまりよい治療はない。半年くらい学校を休んだ。休んでいる時に毎日病院で注射をした。1つはペニシリン。もう1つは黄色の抗生物質。主に肺の結核に効く。注射自体はあまり痛くはなかった。ただ、注射した薬が溶けなかった。朝1回右側のお尻へ注射。午後左側へ注射。それの繰り返しが半年続いた。お尻が固まって注射の針が曲がったこともあった。飲み薬は、吐き気がすごかった。当時の食事は栄養がなかった。両親は栄養の為に朝は私だけは卵を1個出してくれた。でも、吐いてしまった。

治るまで色々な経験があった。レントゲンは、今は出来上がった写真で見る。当時は父親と検査は一緒にしていて、父親がレントゲンを撮る時には私が、私が取る時には暗い部屋に入って医者と一緒に見ていた。当時は何も知らなかったが、放射能をいっぱい浴びた。会社の医務室に行った時に周りの人から顔色がすごく黄色いと言われた。

学校へ行かないでいる時は小さくて臭い川で蛙や蛇を捕まえて遊んだ。蛙などは食べた。両親は文化人であまり外で遊ばない。でも、両親は仕事でいない時、私は1人で大自然で遊んだ。これも病気が治った原因の1つかも知れない。死ぬギリギリの病気ではなかったかも知れないが、体は弱かった。学校へ戻ってからは、体を鍛える決心がついた。近くの武術家に習おうと思った。何が好きも言えないし、どういう修業をすれば良いのかも分からない。ただ体を鍛えたい気持ちで始めた。始めたものは少林拳だった。有名かどうかはわからないが2,3人の先生に習った。先生にとても感謝している。自分自身高いレベルではなかった。型とか站椿功とか少林寺武術の基本、体力作り。自分自身の心、気持ちはとても強く持っていたので、他の人よりも何倍も努力した。9歳前くらいから夜、外で教わった。当時は、今の教室のように部屋の中で先生からずっと教わるものではない。農地や空き地で行った。雨が降れば泥の状態になる。そういう場所で練習した。夜は先生に教わり、朝は自分で練習した。段々体力もついていった。走るのも、初めは2~3kmで次に5km、最後は毎日10km。毎日やります。朝起きて準備運動。水道はなかった。井戸水をくみ上げて全身を水で拭く。風邪をひきにくくなる。冬は大変マイナス10何度。何年間か続けた。

寒すぎて体を拭いているタオルが凍った。それが終わったら走る。郊外から市内まで。初めはゆっくり段々早く。誰か他にも走る人がいると必ず競争した。絶対に勝つ。今日勝てなかったら、次の日待っていて競争して、待つまでやった。今思うとあまり良い性格ではないかも知れない。走り終わったら農場で自分で鍛える練習。体力を上げる練習や型、色々な基本功は自分でやる。その時に器具などは全くない。どうするか?

 当時は今のようにいつでも買い物に行けるわけではない。食料の証明書を元に家族1ヶ月分の食料をいっぺんに買う。小麦粉やとうもろこしの粉など。とうもろこしの粉は高価なイメージかも知れないが、当時のものは皮などついたままで飲むとまずい。でも、とても良い健康食品。米で作るパンは大丈夫。とうもろこしの粉で作るパンは、なかなか発酵しない。よく失敗する。犬を殴ると殺せるくらい固い。

 友達からダンベルを貸してもらった。初めは7kgくらい。半年くらいで筋肉が大分ついた。その後、友達がうらやましがって、ダンベルを返してくれと言われて、もう貸してくれない。父親は鋳物の専門だったので、作ってもらった。でも、あまり形は良くない。10歳くらいの時に15kgのダンベルや重い物で筋トレをした。今持っても軽い物ではない。これは体を鍛える話。人間は頑張ろうと前向きになったら、当然、肉体だけではなく、元々勉強も好きな方だったので、勉強も頑張る。常に小学生から高校までトップ。他の勉強もするようになった。自分の人生、こういう風にしようと前向きになって、大きく考えなくても一歩踏み出したら、色々な面で良い方向に向いていく。私が感じるのは、何かのきっかけで第一歩を踏み出すことは、非常に重要であるということ。私の第一歩、感謝の一歩は、1つは、文化大革命の時の逆境。もう1つは、私の病気。もしこの2つがなければ、私はこの道に入れなかった。何故か、普通の周りの労働者の家庭より給料も良い、仕事も良い。私も学校の成績が良いので尊敬もされる。何も特別の努力もしていない。私は人間であり、神に生まれたわけではない。だから、その2つがあったからこそ自分は変われた。