仏教弾圧の二年後582年、北周の宰相(さいしょう)である楊堅(ようけん)は、北周に代わって随王朝を建国し、皇帝になりました。そして、少林寺の名前も復活さて、広い農地も与えらました。しこで当時の管長は、高い役職の一つである「執事僧」を派遣して、皇帝恩賜(おんし)の農地に赴かせ、そこで200余名の僧侶達が農業と修行を行ったのでした。しかし、隋の煬帝(ようだい)の末年、王世充(おう せいじゅう)という豪族が自分の軍隊を引き連れて、洛陽(らくよう)と鞏県(きょうけん)一帯を支配し、逗留していました。王世充は隋の政治に反対する一方で、派兵して少林寺の土地を占拠しましたが、当然の事ながら僧侶達の抵抗を受けました。そこで少林寺は焼き討ちに逢い、寺のほとんどは灰燼(かいじん)に帰したのでした。
 少林寺が焼き打ちされたため、僧侶達はやむを得ず周囲の村で生活していました。それと同時に僧兵を派遣して、洛陽で捕われていた唐王「李世民(り・せいみん)」を救出し、李世民と共に王世充と戦って、王世充を敗りました。
 隋が滅亡して唐が次の王朝になり、李世民が二代目の皇帝である「太宗」になると、太宗は少林寺を特に厚遇しました。少林寺の建物の再建はもちろんの事、土地も広く与えられ、僧兵を募集する事も許されました。そして、その僧兵達は政治に参与する事を許され、肉食と飲酒も許され、殺生(せっしょう)の戒(=殺してはならいないという戒律)を破る事も許されたのです。また王朝成立にあたって功労があった僧侶に対しては、それぞれ褒賞(ほうしょう)が与えられました。その中でも曇宗(どんしゅう)大和尚は、特に大将軍に任じられ、少林寺の管長と兼任しました。
 後に、高宗と武則天(ぶそくてん)の時代に、都の「西安」のほかに、洛陽が東の都として定められたので、少林寺は皇帝がたびたび訪れる場所になりました。当時の少林寺は約9万3千平方キロメートル余りの土地を有し、寺院だけでも3600平方キロメートルあり、僧侶の数は二千人以上で、部屋数は5千あまりでした。現在の少林寺の部屋数は20いくつぐらいでしょうか。この頃がまさに少林寺の最盛期だったわけです。
 842年唐末の武宗(ぶそう)の時代は、楊貴妃も亡くなった「安禄山(あんろくざん)の乱」によって中国は疲弊(ひへい)しきっており、人々は重税から逃れるために続々と出家するという状態になっていました。当時仏教は非常に盛んで、寺院は多くの荘園を持っていて非常に豊かだったので、国家利益との矛盾も次第に大きくなってきていました。武宗は寺院と僧侶の整理を命じたので、寺院の多くは破壊され、僧侶もまた還俗(げんぞく)させられました。中国仏教史の本の中によれば、当時中国全土で、大規模な寺院は四千六百箇所余り、小さな寺院は四万箇所が破壊されたということです。僧侶および尼僧(にそう)も26万余りが還俗させられました。その結果広大な土地が唐王朝に没収されることになったのです。武宗の仏教弾圧は、後の仏教の発展に大きな影響を与える事になりました。ゆえに、「会昌の滅法(かいしょうのめっぽう=会昌の仏教受難)」と呼ばれています。
 しかし、この弾圧は少林寺にあまり大きな影響を与えませんでした。それは、第一に唐の時代、数多くの皇室の人々が少林寺に出家していたためと、第二に少林寺は唐の建国に際して少なからぬ功労を立てているので、太宗の時代から唐の歴代皇帝はみな少林寺に対して褒賞を行っていたからです。そのため、弾圧の影響をさほど受けずに、繁栄を続けましたし、数多くの高僧が弾圧を逃れて少林寺にやってきたので、少林寺の評判はますます高くなりました。宋代には、少林寺が収蔵していた経典(きょうてん)は九千五百巻余りに達し、非常に有名な寺院なったため、宋の太宗から「天下第一の名刹(=天下一の素晴らしい寺院)」をいう称号をいただきました。
 元朝末期、各地で次々と農民の暴動が起こり、その中でも最大規模の「紅巾(こうきん)の乱」が少林寺に押しよせました。僧侶達はみな寺から逃げ、寺院は無人状態となっていたため、紅巾軍によって仏像も建物も大部分が破壊され、見る影もない状態になってしまいました。明の時代になると、少林寺の建物は修繕され、増築もなされました。万歴帝(ばんれきてい)は八人の皇子を僧侶にして少林寺に入れたので、少林寺はさらに盛んに、また有名になりました。
 清の時代、歴代皇帝は少林寺を特別重視していました。例えば、聖祖:愛新覚羅・玄カは「少林寺」の三文字を自ら書いて額にしましたが、それは今でも少林寺の山門に飾られています。また、雍正帝(ようぜいてい)は1734年に少林寺の山門を新しくしています。このように清朝は少林寺を大事にしましたが、その一方で少林寺に警戒心を抱きつづけていました。清朝は異民族である女真族(じょしんぞく)が建てた王朝であり、漢民族の王朝とは違います。だから、清に反対して、明の復活を図る事を恐れており、少林寺の僧侶に武術の練習を禁じる勅令を出していました。そのため、清朝統治の二百年間に少林寺は次第に衰退していったのです。
 さて、現在少林寺を訪れた人々は、色鮮やかな天王殿や高くそびえる大雄宝殿などの立派で美しい建物を目にするかもしれませんが、その後ろの鐘楼や鼓楼などにはなんとなく破壊の跡を感じるかもしれません。実は、これは1928年に、当時の軍閥「石 友三(せき・ゆうさん)」が焼き討ちしたあとであり、「二八火厄(にはちかやく)」と呼ばれているものの跡です。石友三は少林寺が敵対勢力につくことを恐れて、少林寺を焼き討ちしたのですが、その火は1ヶ月あまり燃えつづけ、天王殿や大雄宝殿を始めとして鐘楼や鼓楼に至るまですべて燃え尽きてしまいました。達磨大師面壁(めんへき)の石も倒され、少林寺は大変な状態になったのです。蒋介石は少林寺に来て、この状態をみて「石友三は悪すぎる」と言いましたが、実際石友三は蒋介石の部下でした。石友三が少林寺を立ち去ってから、僧侶達は急いで寺に戻り、復興作業に尽力しました。最近では中国政府も資金を出して再建・復興活動に励んだため、再び新しく美しい状態になりました。