少林寺では次のような二つの言葉が伝えられています。それは「師に導かれて仏門に入るが、修行は自分一人でする」と、「十年間苦学すれば、皇帝の元で高級官僚になれるが、十年仏前で経文を読んでも徳を積んだ和尚にはなれない」です。少林寺を訪れた人々は、作業用の僧衣(そうい)を着た僧侶達が一日中寺の中を行き来するのを目にするでしょうが、僧侶達はみな厳しい戒律を守っており、ある種の特殊な学校のような印象さえあります。
 さて、朝四時、僧侶達は皆きちんと並んで大雄殿(だいゆうでん)の中で合掌し、鐘などの仏教用の楽器の伴奏のもとで、読経(どきょう)がはじまります。これが少林寺の朝の勤行(ごんぎょう)です。一人が読経して、その後にその他大勢の僧侶が読経するときもありますし、立って読経する事もありますし、座って読経する事もあります。同時に皆で読経するときに、一人が手印(しゅいん)など色々な動作をして、お経の意味を表すこともあります。また、大勢の僧侶がいっせいに、大雄殿のご本尊のある仏壇をを囲むように歩きながら読経をすることもあります。人数が多くて入りきれない時は外の庭に出て、大雄殿の周囲を練り歩きながら読経することもあります。これは「繞仏礼(じょうぶつれい)」とも、「ホウ仏礼(ほうぶつれい)」とも言われています。
 朝の勤行の後、日中はそれぞれが担当している仕事に皆が忙しく励みます。農作業や、水汲み(水道がなかった頃、これは非常に大事な仕事でした)、来客の接待、仏堂内の掃除や警備のような仕事もあります。だいたい夜の八時になると、皆もう一度大雄殿に集まって、夜の勤行を行います。これは一年三百六十五日、毎日行われているものです。
だいたい朝と夜には、「楞厳咒(りょうげんじゅ)」や「般若心経(はんにゃしんぎょう)」や「阿弥陀経(あみだきょう)」などが読まれています。またそれ以外にも、個人の修行レベルの度合いによって、「楞伽経(りょうがきょう)」や「十地経」、「仏七儀規」などが読まれます。夜になると、千仏殿に明かりをともし、先生の指導の元で弟子達が武術の練習を行います。これは、対外的にされる話しであって、庭には明かりがないので結構暗いのですが、実際は庭でも練習を行います。このようなリズムで、昼間は先生から指示された仕事をし、同時に朝晩の勤行で読まれる経文がいつでも言えるように、常に唱えています。これは、どんなに忙しい中でも時間を作って勉強するという事で、いつでも仏典に慣れ親しんで覚えるようにしています。経文(きょうもん)を学ぶ時は、常に経文を手にし、目は常に経文を見、耳は常に読経(どきょう)の声を聞き、口は常に経文を読み、心は常に経文のことを思って、悟っているという状態にします。このようにしていると、とても早く経文を覚えます。そして同時に雑念がはらわれ、自分の本性(ほんしょう)が清らかになり、悟りの心境に達するようになるのです。
 深く悟った、高齢かつ徳(とく)の高い僧侶は、毎日弟子に仏教の授業を行うほかに、自分もまたより一層のレベルに達するために深く研究し、修行を怠りません。(おこたりません)ある少林寺の僧侶は、「修行のレベルには浅いものと深いものがあり、悟りのレベルには高い低いがあり、みんな違います。一人の先生が教えた中でも、弟子のレベルは高いものも低いものも色々あります。」とおっしゃっています。
 僧侶達は、このように日夜修行に励んでいるわけですが、それは一体何のためなのでしょうか。中国のことわざに「どんなに太い鉄の棒も、あきらめずに磨いていけば最後は針になる。」というものがあります。このように、人も精進(しょうじん)努力をつづければ、高いレベルに自然に至る事もできるし、最後は悟って仏(ほとけ)の境地にいたるということです。僧侶達は、「一生懸命修行して、最後は仏教学の一つの学位のようなものを獲得し、世間から尊敬される、いわゆる”悟った人”になりたい。そうして、自分の来世は、西方の極楽浄土に至る。」ということを常に念頭に置いているのです。
 さて、そういった悟りのレベルの学位とは、どのようなものなのでしょうか?これは三つあります。第一は、少林寺に入った僧侶は年齢に関わらず、すべて雑役(ざつえき)から始め、仕事をしながら仏教の事を勉強します。もちろん武術も習います。「楞厳咒(りょうげんじゅ)」や「般若心経(はんにゃしんぎょう)」や「阿弥陀経(あみだきょう)」、それに「蒙山(もうざん)」などの経典に習熟(しゅうじゅく)し、よく覚えたあとに、はじめて「沙弥戒(しゃみかい)」を受けて、「沙弥(しゃみ)」という学位をもらいます。沙弥になると、少林寺の和尚(おしょう)の正式な弟子になるのです。次は第二の学位である「比丘(びく)」に向けて修行を始めます。比丘になるには、始めに勉強した五つの経典を基礎として、「法華経(ほけきょう)、楞伽経(りょうがきょう)、金剛経(こんごうきょう)、般若波羅蜜経(はんにゃはらみつきょう」などを勉強します。これをよく理解し、暗唱できるようにしなければなりません。また年齢が二十歳を超えたものは、僧侶が守らなければならない五戒や、少林寺の規則を守って実行し、ある一定レベルの仏性(ぶっしょう)と悟りの境地に至っている場合、「比丘戒(びくかい)」を受けて「比丘(びく)」になります。男性は「比丘僧(びくそう)」、女性は「比丘尼(びくに)」と呼ばれますが、比丘になると、師となって弟子を受け入れることができるようになるのです。
 もし、比丘戒を受けたら、さらに続けて仏典(ぶってん)の研究を掘り下げ、人々に説法(せっぽう)ができるまでになります。また、仏法(ぶっぽう)を実行できるようにもなります。また「慈悲(じひ)を基本とせよ」という教義に従って行動でき、人々の利益のために行動し、悟りをひらいた人になるのです。この境地に至った人は、三番目の学位である「菩薩(ぼさつ)」となり、「菩薩戒(ぼさつかい)」を受ける事ができます。
 「菩薩戒(ぼさつかい)」を受けるには、まず「五明(ごみょう)」に至らなければなりません。では、この「「五明」とは何でしょう?第一は「声明(しょうみょう)」で、一般社会における音韻学と文学を理解していなければいけません。第二は、「工巧明(こうこうみょう)」で、これは天文・数学などの科学技術や色々な物の作り方に対する常識がわかるということです。第三は「医方明(いほうみょう)」で、医学がわかって、病人の治療ができるということです。第四は「因明(いんみょう)」で、論理学がわかり、世の中のことに対して正しい判断ができるということです。第五は、「内明(ないみょう)」で、仏教学に精通し、悟っていて心が明瞭であることを指します。この「五明」の状態を身につけた人だけが、仏教の慈悲の心を体現したり、世の中の人々を救うことができるのです。
 第三の菩薩戒をうけた人は、「菩薩」と呼ばれます。少林寺でも「菩薩」と呼ばれている人は少ないです。在家の弟子はまた別で、武術の方は武術の方でまた別の方法があります。武術は段位があって、自分が覚えている内容と練習年数によって定められています。これは以前はなかったのですが、最近になって中国全土共通の基準が制定されました。外国、とくに日本でも、それを参考として段位が制定されています。段位は一段から九段まであって、一般には八段や九段はあまり多くありませんが、九段が終わったら師範になります。武術は僧侶だけではなく、もちろん武術学校の先生も勉強しています。いま、少林寺周辺の武術学校の最高レベルは、人数はあまりないそうですが、だいたい七段だそうです。五段や六段はまあまあ多くて、30代や40代近くの人がいるとのことです。そんな状態です。
 少林寺の僧侶でも、文僧は仏教の三つのレベルを目指します。もっと上には「禅師(ぜんじ)」や「法師(ほうし)」、「律師(りっし)」「大師(だいし)」もあります。武術は一段から始まって九段に至り、師範、最高師範という形になっています。