さて少林寺はこのような制度で管理されており、中国全土の各地方からやってきた僧侶が、統一された一つの組織に構成されているわけです。少林寺の場合は、「六和(ろくわ)」を通して「六度(ろくど)」に至ります。
 この「六和」は僧侶同士の付き合いにおける六つの原則を指しています。一番目は「戒和」といい、大勢が共同で生活するに当たって互いに監督し、互いに制約しあい、共同で仏教の戒律を守ります。「和」は調和と言う意味ですから。二番目は「見和(けんわ)」で、大勢がみんなと同じ考え方で修行する事を要求するものです。三番目は「種和(しゅわ)」で、みんなは全て平等に、集団の財物を利用すると言うことです。四番目は「身和(しんわ)で、大勢が共同生活する上で、互いに世話をし合い、関心を持ち合うということです。五番目は「口和(こうわ)」で、言葉の上でお互いに良い方向へ導きあい、啓発しあって、仏教の道理を共同で理解しあい、互いに間違った方向へ行かないようにしあうということです。六番目は「意和(いわ)」で、皆が魂の深い部分から友愛をいだきあい、互いに尊重しあい、一致団結する事を求めているものです。このような六つの原則を通して、皆が親密になり、仲良くしていれば、同じ速度で「六度」に至り、彼岸(ひがん)いわゆる悟りへと到達できるわけです。
 では、「六度」とは何でしょうか。六つの仏教の理想世界を指しており、極楽(ごくらく)へ行ける方法を教えています。
 第一は「布施度(ふせど)」ですが、「布施度」には三種類あります。一つは「財施(ざいせ)」で、自分のお金や物、物質利益を大衆にあげることで、そうすると他人の苦しみを解脱(げだつ)させることができます。少林寺の僧侶はここ何年かは、寺の財産の中からアフリカの災害地域に金銭面での援助をしたり、病院の建設をしたりしています。一つは「無畏施(むいせ)」で、自分自身の頭や目・手・足から命にいたるまで全てを使って、他人の安全を守ったり、あるいは他人の生命の危機を助けるということです。だから、他人の生命や財産・安全を守るためなら、自分は何も怖くない。自分の身体や命が怪我をしたり、損なうことをも心配しません。歴史上、少林寺の僧侶は、この教義に従って行動しているので、唐王(後の「唐の太宗」)李世民(り・せいみん)を助けたり、盗賊征伐をしたりして、自分達の生命の危機を全く顧みませんでした。最後の一つは「法施(ほうせ)」で、仏教の理論を講演などによって一般の人々に知らせ、迷いをといてもらって、悟りへの道を歩んでもらうということです。
 第二は「持戒度(じかいど)」で、一般の人々の利益のために、一切の悪い行いが生まれないよう防止するということで、善行を積んで、色々いい事だけをするということです。
 第三は「忍度(にんど)」で、一般の人々の利益のために、殴打や誹謗中傷・飢餓・貧困などあらゆる困難に対し、自ら進んで忍耐します。「なし難き事をなし、忍び難き事を忍ぶ」ということを通して、一般の人々を仏教によって救うという信念を持って修行をするということなのです。
 第四は「精進度(しょうじんど)」です。これは、自分の一生を通して、自分や他の人々を救済し、他人を助け、自分自身も目標の所へ行けるように、一生たゆまず努力しつづけるということです。
 第五は「禅定度(ぜんじょうど)」です。これは自分の座禅・瞑想を通し、精神修養の行動を通して、他の人々に影響を与えるということです。
 第六は「般若度(はんにゃど)」です。これは、上記の一度から五度までを通して、世の中の人を、迷いの中にある状態から、仏教で言う目覚めた状態に連れていき、聡明で智慧のある悟った人にするということを意味しています。
 最後に、禅宗である少林寺には、なぜこんなにも多くの執事僧による役職は置かれているのでしょうか。この目的は、僧侶達がみな仲良く共に悟りの道を歩めるようにするためです。同時に、さらに多くの人々にも、同じように悟りの道を歩んでほしいという願いからでもあります。また、自分と他のあらゆる人々が、迷いに満ちた状態から悟った状態へと解脱(げだつ)し、悟りの世界の人になることができるようにもするのです。