仏教の中には数え切れないぐらい多くの、規律と戒律があります。仏典の中に定められた規律と戒律はどれぐらいあるのでしょうか?ある僧侶の話によれば、やく五千余りあるとのことです。一人の仏教徒が出家して僧侶になった場合、このように数多くの戒律の中で生活しなければならないのです。
 この五千幾つの戒律があるわけですが、出家して仏門に入ると、まず「四進規(よんしんき)」という決まりを守らなければ行けません。「四進規」の第一は「舎貪愛規(しゃたんあいき)」です。これは、一心に仏(ほとけ)に向かい、純真な心を持ち、執着につながるため全ての愛を捨て、苦悩に満ちた俗世間からの解脱(げだつ)を図ってこそ、仏を信じて出家できる、ということです。第二は「四無規(よんむき)」で、殺したことがなく、盗んだことがなく、淫らなことをしたことがなく、でたらめな言動をとったことがない、ということです。もし、家族に対する何かしらの願望や希望といったものが生じたら、その人は自主的に還俗(げんぞく)して、僧侶をやめるべきです。第三の、「三限規(さんげんき)」は、出家する時に受ける三つの条件を指しています。まず、両親の同意がなければ出家できません。次に、五体満足な身体であり、病理学で言う精神的に問題がない場合のみ、出家できます。最後に、国家の法律に違反したり、他人に債務がある人は、出家できません。第四は「十引進規(じゅういんしんき)」で、出家の時に必ず十人の紹介者がなければならないということです。紹介者になる人は、比丘戒(びくかい)を受けて満十年以上になる僧侶でなけれなりません。出家の規律は非常に厳しいものですが、最近ではこうした「四進規」に従って少林寺に入る手続きをする人は少なくなりました。
 少林寺に入った後も、「三規(さんき)、五戒(ごかい)、十善(じゅうぜん)」の三つの規律を守らなくてはいけません。「三規(さんき)」とは、心の底から、仏に帰依(きえ=心から信じる)し、仏法(ぶっぽう、=仏教の道理)に帰依し、僧侶に帰依する、つまり三宝(さんぽう、=仏、法、僧)に帰依することを求めるものです。仏に帰依するということは、もし自分の命を落としても俗界(ぞっかい)にある魔障(ましょう=修養の心の妨げになるもの)の誘いを受けず、釈迦如来の教えこそが正しいのだと言うことを信じることです。仏法に帰依するとは、命をなくしても、他の書籍や学説に惑わされず、四十二章の仏典こそが最高のものであるという信念を持つということです。僧侶に帰依するとは、命を捨てても、外界の邪悪な誘いに乗らず、仏門の僧侶であることを至上とするという信念を持つことです。
「五戒(ごかい)」とは殺(=あらゆるものの命を奪って殺さない)、盗(=他人のものを盗まない)、淫(=一切の性生活を行わない)、妄(=嘘の言動を行わない)、酒(=飲酒しない)という戒律を徹底して守るということです。「十善」とは、五戒を基礎として生まれたものです。「十善戒」は更に一歩進んで、身業、口業、意業の三つに分かれて、話す面と意識の面というように、細かい制限があります。
 「三規、五戒、十善」の戒律を守ることは、最低限の条件です。この「三規、五戒、十善」以外に、「十戒、四念住、四正勤、四神足、五根、五力、五停心、七覚支、八正道、三十七道品、二百五十条具足戒、七重二十八軽戒」と、数多くの戒律があります。このように数多くの規律・戒律があるのは、修行して心身を浄化するためです。
 こんなにたくさんの戒律を守らなければならないとしたら、どうやって僧侶達を監督しているのでしょうか。寺院の中の「僧値和尚(そうちおしょう)」が毎日監督する以外に、半月に一回「布薩蝎摩大会」を開いています。その時、僧侶達は戒律を読み上げた後、戒律に従って一人一人が自分の反省点を発表します。自分がこの半月の間に行ったことを自己反省し、自らの過失について率直に告白するわけです。その後、別の人からの指摘も受けます。しかし、ここ最近の数年間、少林寺では一日当たり一万以上の観光客を受け入れなければならず、このように長い話し合いの場を持つことがなくなってきているので、 将来この制度は消滅してしまうかもしれません。少々心配しています。
 少林寺の規律・戒律はたくさんですが、最も基本的な「五戒」の中に、「殺すなかれ」というものが含まれています。では、死刑にすべき罪を犯した人の事を、仏教ではどのように考えているのでしょうか。仏教には「因果律(いんがりつ)」という言葉があります。これは、良いことをすれば、自分に良いことが起こり、悪いことをすれば、それは自分に帰ってきて悪いことが起こるということです。仮に自分に帰ってこなかったとしても、それはまだ時間になっていないだけで、いずれ自分に帰ってくるのです。だから、良いことは賞賛し、悪いことは懲罰する、これは仏教の根本です。それゆえ、殺人犯は、自らの命で罪を償わなければならないのです。少林寺にいる僧侶達は必ず法律を守らなければなりません。少林寺に入りたい人が、仮に法律違反している場合、入門は出来ません。特に、殺人犯や国家と国民の利益を侵した犯人は、全て逮捕されるべきです。お釈迦様は弟子達に、戒律を授けて、あらゆる生命を奪ってはならない、つまり殺してはならないとされましたが、この戒律と死刑とは全く別物です。一つは、仏門の弟子として守らなければならない戒律、もう一つは国家の定めた法律ですが、この両者を混ぜてしまうことはよくありません。
 中国の仏門では、極悪犯に対しては死刑に処すべきであると考えていますが、では死刑執行者は「殺戒」を犯すことになるのでしょうか。少林寺のある大師は、次のように考えておられます。「これは”開”と”遮(しゃ)”の問題であると言えます。通常の状況のもとでは、もちろん戒律を違反することは許されていませんが、これを”遮”と呼ばれています。しかし、特別な事情の時には戒律を違反することが許されており、これは”開”と呼ばれています。例えば、唐の太宗(李世民)は、少林寺の僧侶に”飲酒と肉食を許し、悪い者は殺しても構わない”と言い渡しましたが、これは皇帝と食事を共にしたり、世の中の平和のためには極悪人に対して戦うといった、特殊な状況のときのことであり、その時は”開”を行って戒律違反をしても構わない、ということなのです。だから、死刑が言い渡された犯罪者に対しても、死刑を実行することはできるのです。こうした死刑実行者は、逆に仏法を守る「護法神将(ごほうしんしょう)」と考えて良いと思います。
 仏教では、必要に応じて”開”つまり必要に応じて戒律違反するということは、仏法を護るという意味があります。開祖の達磨大師が面壁九年(壁にに向かって瞑想していた)時、ある日暴徒が達磨大師を殺そうとしたことがありました。その時、二祖の「慧可(えか)」は刀でその暴徒を殺しましたが、これは「開戒」ですから、誰も非難しなかったし、逆に賞賛さえされました。少林寺の天王殿にある四天王(してんのう)の足の下には、仏教徒人々に害をなす鬼や妖怪の類があって、踏みつけられています。これは、「開戒」の一つのあらわれであると言えましょう。
 仏教に、数え切れない戒律が設けられている目的は、三つです。第一は、「悪いことはしない」、第二は「良いことをたくさんする」、第三は「いつでもどこでも、世の中の人々の利益を考えて行動する」ということです。
 少林寺の僧侶のように、世の中の人々が皆、ここにあげたような規則や戒律を守ったならば、社会は安定し、人々は幸せに過ごすことができるようになるので、理想的な社会になるでしょう。