観光客の中からも、また皆さんからも「少林寺に尼さんはいますか」という質問はよくあります。しかし、少林寺で尼さんを実際見かけた人は少ないと思います。この原因は、尼さんの数は少なく、住んでいるところも寺の中心から遠いからです。、また、仏門に入ると男女ともに剃髪(ていはつ=髪の毛を剃ってしまうこと)して、髪の毛がありませんし、男女共に同じ衣服を着ていますし、呼び方も男女の別なく「師父(しふ=先生)、師兄(しけい=兄弟子)、師弟(してい=弟弟子)」と呼んでいます。だから、本当に尼さんたちに会ったとしても、判断するのは難しいのです。少林寺の千年以上続く歴史の中で、尼僧はずっと絶えることなく存在してきました。
 少林寺で初めて尼僧になった人は「永泰公主(えいたいこうしゅ)」といって、北魏の「宣武帝(せんぶてい)」の娘、次の「孝明帝(こうめい)」の妹です。当時、少林寺は建てられてから二十二年たっており、永泰公主は少林寺に来てそこで出家して尼僧になりました。
 皇帝の娘として生まれ、欲しいものは何でも手に入るような、恵まれた条件のもとにありながら、なぜ少林寺の尼僧になったのでしょうか?この時の原因については、二つの話が伝えられています。当時仏教は宮廷および民間の間で非常に流行っていました。孝明帝も、その母親もみな仏教を非常に良く信仰していたので、娘である「永泰公主」も幼い頃から仏教を信じていて、出家して尼僧になりたいと考えていました。当時剃髪して僧侶になることは、社会的にも非常に尊敬されることでした。もう一つの原因についてはm次のような話が伝えられています。「永泰公主」の母親は朝廷で強大な権力を持ち、自分の好きなように振舞っていました。「永泰公主」に父である「宣武帝」が亡くなり、お兄さんの「孝明帝」が皇帝になった時も、「永泰公主」の母親が権力を握っていたため「孝明帝」に実際の権力はなく、皇帝は憂鬱な日々をおくっていました。「永泰公主」は母親と一緒に少林寺を訪れた時、全ての権力を「孝明帝」に譲り渡すように誠意を持って、はっきりと母親に話しました。こうした真心から出た話は、母親の逆鱗(げきりん)に触れ、怒りを招いてしまい、「永泰公主」は自分が殺されそうになっていることに気付きました。そこで、少林寺に逃げ込んで尼僧になったのでした。
 「永泰公主」が少林寺で出家した後、「孝明帝」の次の皇帝「孝圧帝」は、たくさんの衣装や装飾品、化粧といったものを寺へ届け、宮廷へ戻るように説得しました。しかし、「永泰公主」の決心は固く、二度と戻ろうとはせず、修行を続けました。
 今も、少林寺には八十何歳の年配の尼さんがいます。寺で七十何年間修行を続けているのです。
 少林寺の北側にある初祖庵(しょそあん)には、「永梅(えいばい)」、「永珍(えいちん)」、「延花(えんか)」、「延果(えんか)」、「延桂(えんけい)」、「延林(えんりん)」という尼僧が住んでいます。私達が去年の九月に少林寺を訪れた時、初祖庵(しょそあん)にも行っています。達磨大師ゆかりの「達磨洞(だるまどう)」へ行く時にちょうど通りますから。この初祖庵に住んでいる「永梅」と「永珍」という二人の尼僧は、もう少林寺で二十年近く修行を続けている人達です。