「1」

少林寺の達磨亭の前には「立雪亭」と書かれた石碑が立っています。
達磨亭はどうして立雪亭とも呼ばれているのでしょうか。
達磨亭の門の両脇には「深夜雪没神光膝、断臂求法立雪人」と書かれています。
そして、この建物の中の本尊がまつられている仏壇の上には、清朝の乾隆帝が書いた「雪印心珠」という額が掲げられているのですが、 禅宗の二祖である「慧可(えか)」が、この場所で自らの腕を切って仏法を求め、禅門の正統を確立したことをあらわしているのです。

「中国仏教」という本の「慧可(えか)」の段には、次のような記述があります。 「慧可」の禅法を語る時、中国の人々は必ずその「断臂求法」の伝説を思い浮かべます。
「宝林伝」という書の第八巻にある「慧可碑」には、慧可が達磨大師に仏法を求めた時、 達磨大師は“仏法を求める人は、自分の身体を身体にすることはできない。自分の命を命にする事はできない」と言いました。そこで、慧可は雪の中で何日間も立ちつづけた後、自分の腕を切り落として、その決心を示したのです。達磨大師は慧可の決意を知って、 仏法を教えることにしたのでした。
この「雪中断臂」は禅宗の有名な話しとして広く伝えられています。

「慧可が達磨大師に教えを請うた時、なぜ自分の左腕を切ったのでしょうか?
「慧可」篇には、さらに二祖の慧可は姫光という名前で、虎牢(現在の河南省 yang県 水鎮)の人であるとあります。法名は神光とも呼ばれています。 慧可は子供の頃から学問好きで、20歳にもならないうちに様々な書物を読んでいました。
また両親が非常に熱心な道教の信者であったため、その影響を受けて道教を信じ、特に老子と荘子を好んでいました。 20歳になってから、少林寺に来、バッダ和尚について小乗仏教の教義を学び、バッダの優秀な弟子となります。

彼はバッダの命を受けて中国各地へ説法の旅に出て、南京まで至りました。
当時518年ごろの事ですが、バッダが亡くなってから数年たっており、慧可は四十歳をすぎていました。 ある日慧可が南京の雨花台で信徒に向かって小乗仏教の教義を教えている時に、偶然達磨大師の教えを受けて、 大乗仏教の教義を信奉しようと突然悟ったのです。

そこで、達磨大師とともに少林寺に戻り、寺の裏にある五乳峰のchi・you洞で達磨大師が九年間面壁したとき、 慧可はずっとその側で守りつづけました。
しかし達磨大師は、この博識で小乗仏教を良く学び知識の深い慧可を全く信用しようとはせず、 つかず離れずで相手にしないという態度を取りつづけます。一方慧可はまったくあきらめず、 毎日大勢の僧侶達に混じって、大乗仏教の勉学にいそしんでいました。
達磨大師が経典について講義を行うとき、いつも慧可が聞く事を許可しませんでした。 しかし、慧可はそのことを全く気にせず、自身の学びが浅く、良くない物が数多く残っていると考えて、 だから師である達磨大師から認められていないのだと言うことを、よく理解していました。 そして、慧可はますます大乗仏教の禅宗を一生懸命学んでいったのです。
「2」
ある夕暮れ、「慧可(えか)」は師である達磨大師の後ろに座っており、大乗仏教の心理について黙想していました。
そこに一群の暴徒が進入してきます。その中の一人は刀を抜き、達磨大師に向かって「この南から来た野蛮人、 ここでこんな事をして人心を惑わすんじゃない。お前が嵩山を立ち去らないのなら、俺が成仏させてやる。」と怒鳴りました。
暴徒たちによる、このようなひどい仕打ちに対しても、達磨大師は微動だに動こうとはしませず、手を合わせて「阿弥陀仏」と唱えはじめました。 この暴徒たちは、脅しに対して達磨大師が相手にしないことを目の当たりにして、さらに怒りをたぎらせます。
そして、手にした刀を振り上げ、打ち下ろそうとしたその瞬間。慧可が日頃の鍛錬で鍛えた腕を使い、 両手で下に敷いていた円座を刀を持った暴徒の一人に投げつけ、事無きを得ました。
そして、奪い取った刀を持って、 暴徒たちに「ここを騒がす奴は、私があの世に送ってやる」と怒鳴り、手で抑えつけた暴徒の一人に刀を向けるポーズをとったのでした。 暴徒たちは形勢が悪いのを見て取り、全員がひざまずいて許しを求め、こそこそと逃げ去りました。
このとき、達磨大師は慧可に対し、「僧侶になるには、身体を以って身体となさず、命を持って命となしてはならない。 きょうのこの事から見て、お前は大乗仏教の僧侶となる事を許します。」といって、初めて仏教に関する話をしました。
慧可はこの言葉を聞くや、うれしさの余り何度もひざまずき、手を合わせて「阿弥陀仏」と唱え、達磨大師を拝んだのでした。 達磨大師はこのとき、慧可の法名を「僧可」としました。そして、ここから達磨大師は慧可に帯刀して仏教を学ばせ、仏法を護らせたのです。 慧可はこうして、ようやく大乗仏教・禅宗の弟子となったのでした。
「3」
「中国仏教」という本の中の「慧可(えか)」篇には、次のような記載があります。
慧可は達磨大師について仏教を六年間学びましたが、その後禅に対する一定の見識が完成されました。
ある日慧可がほかの人の質問に対する回答を詩にして便箋に書いていたところ、達磨大師がやってきて、その詩を見ました。その詩には「上から教えられた教義や真理は瓦礫のように意味のつまらないものだ。それよりも、自然に悟って得たものこそ価値のあるものである。生身の身体と仏の間には、なんの違いもないのだ。」といった内容の事が書かれてありましたが、これは簡潔にあらわされた禅の精神です。
この詩には達磨大師が日頃から言っている「凡聖等一」や「理入」といった根本的な教義であり、特に「生身の身体と仏の間には、なんの違いもない」というくだりは、達磨大師の「心法」を正しく伝えていました。
この詩を読んで、達磨大師は微笑みながらうなずいたのでした。達磨大師は、慧可の得た悟りと禅に対する理解に対して、心の中で褒め称え、それまでに法名「僧可」を改めて、「慧可」としたのでした。
しかし、慧可は非常に謙虚で警戒心が強よかったので、達磨大師に認められた後も、道教や儒教、小乗仏教などの教えを大乗仏教の中に混在させてしまっているのではないかという事を恐れて、弟子たちに仏教の教義を教えたりはしませんでした。
「4」

伝説によれば、ある寒い冬の朝、「慧可(えか)」は師である達磨大師に仏法を求めにやってきました。達磨大師は達磨亭でまさに座禅を行っているところだったので、慧可は合掌をして外で立って待つ事にしました。午後になり、また夜半になっても、達磨亭の扉は開かれませんでしたが、慧可は微動だにせず待っていました。夜半になり、身を切るように冷たい風が吹き、空からは大雪が降ってきます。しかし、慧可は声も出さずに、静かに立っていたのでした。それから、二日目の朝になったとき、達磨大師はやっと座禅を終えて目を開き、慧可を見ましたが、このとき雪は慧可の膝にまで達していました。達磨大師が、そこで何を待っていたのかと慧可に尋ねたところ、慧可は「師に仏法を求めるためにやってまいりました。」と答えます。達磨大師はこの話しを聞いてぶっきらぼうに、『空から赤い雪が降らない限り、お前に仏法は伝えない』と言いわたしました。慧可はこの話を聞いて、達磨大師は慧可の持つ罪悪の種が除かれておらず、禅宗に対して良くない考えが浮かぶのではないかと言うことを恐れていることを知ります。そこで慧可は戒刀(昔、僧侶が持っていた懐剣)を取り出すと、左腕を切り落として、自らが持つ罪悪の種を捨て去った事を示したのでした。慧可の腕が切り落とされたため、亭の前は血で染まり、慧可も気を失って倒れてしまいました。伝説によると、観世音菩薩が現れ、赤いあや絹の布を広げて寺全体をおおったと言われています。達磨大師は野山が赤一色に染まったのを見て、あわてて慧可を僧房に入れたとのことです。達磨大師は慧可の仏法を求める心にいたく感動し、衣鉢と法器(仏教で使う道具)を渡します。つまり慧可が、自分の考えを伝承するものであると認めたのでした。こうして、慧可は禅宗の第二代の祖師となりました。

「5」

慧可が自らの腕を切り落とした後のことを伝説では次のように伝えています。達磨大師は慧可に仏法を伝えたあと、達磨大師自ら慧可を鉢孟峰まで送り、怪我の養生をさせました。鉢孟峰は松や柏の木が生い茂る緑豊かな所で、養生には最適な場所したが、困ったことに水場が一つもありませんでした。達磨大師が手にした錫状態で地面を一突きすると、そこから水があふれて泉になりました。達磨大師が鉢孟峰を下山したあと、供としてついてきた慧可の弟子「覚興」は、その泉の水がひどく苦いことに気付きます。そこで覚興は、達磨大師にもうひとつ泉を作ってもらおうとして、山を下りようとしたのですが、慧可は「苦いものを口にしなければ、甘いという味覚を知ることは出来ない。せっかく師がくださった水だから、いただくことにしよう」と言って、覚興をとどめたのでした。慧可と覚興は、その苦い水を飲み、泉のそばで柴を拾い、草を刈り、小屋を作って住まいました。鉢孟峰には、この二人しかいなかったのですが、慧可はそれでも、さらなる静けさを求めて、頂上近い崖のそばにある、平らな岩の上で座禅を組むことにしました。当時慧可は、自分の仏教に対する理解がいまだ正しくなく、修行の妨げとなる邪心が存在することを恐れ、その邪心を取り除こうとし、また傷の養生に専念していました。

「6」

ある日達磨大師が鉢孟峰へ行ったところ、慧可が岩の上で、片手を胸の前に合掌の形で置き、座禅を組んで瞑想している姿を目にしました。
達磨大師は慧可に声をかけず、その側に立っていました。どれぐらいの時間が経過したのでしょうか、慧可がようやく瞑想を終えて目をあけると、そこに師である達磨大師がいたので、慧可はすぐに岩の上から降りて、地にひれ伏しました。達磨大師は慧可を助け起すと、ひじの怪我を見て、「まだ痛むのか?」とたずねられました。慧可は「私はこの清浄な地に来て、悟りを求めておりました。仏心に専念しておりますので、痛みはありません。」と答えました。
達磨大師はその答えを聞いて、満足げにうなずきながら、「水はうまいか?」ともたずねられました。慧可は「おいしゅうございます。ひどく苦いものを口にしなければ、悟りを得た人間にはなれません。仏典にもいうではありませんか。人の世の苦しみは無限であるが、悟りの場である彼岸は、実はすぐそこにあるのだと。」と答えました。

「7」

また、数日が過ぎ、二祖「慧可」の腕の傷も次第に良くなって行きました。そして、それにともなって武術の練習も始め、顔色もじょじょに良くなってきたのでした。
ある日、達磨大師が、山(鉢孟峰)で修行と治療を続ける慧可を訪れたのですが、慧可の怪我の状況を見て、うれしげに「よろしい、よろしい。苦味と辛さを味わい尽くして、甘さと酸っぱさが来た。傷が治って健康になれば、仏情はますます盛んになることだろう。」
達磨大師は下山するに当たって、又新しく泉を作りましたが、その水は酸味がきついものでした。慧可の弟子「覚興」は、顔をしかめましたが、敢えて何も言いませんでした。しかし、慧可は、またもやうれしげに「世間のすっぱい俗水を飲み尽くせば、すっぱい(=辛い思いをする)世俗の人は永遠に作られなくなるだろう。素晴らしいことではないか。」と言ったのでした。

「8」

あっという間に冬から春になり、鉢孟峰にも春風が吹くようになりました。
二祖「慧可」が平らな岩の上で座禅を組み、入定(にゅうじょう=座禅で精神統一し、気息がととのうこと)状態にあった時、耳元で突然偈語(げご)が聞えました。
「悪の根元は煉魔台で取り除かれ、苦味、辛味、酸味が尽くされると、甘味が自然とやってきた。仏心が正しければ、人は敬愛し、まさに春に再び花開くのにふさわしい。」慧可が目を開いて見ると、達磨大師が満面に笑顔を浮かべて、慧可の前に立っていました。二祖「慧可」は身を起こし、頭を打ち付けて礼をします。達磨大師は慧可を助けおこすと、共に岩の上に座りました。
達磨大師は、ふところから「楞伽経(りょうがきょう)」全四巻を取りだし、慧可に渡しながら「そなたの身にあった魔気は出し尽くされ、仏心は正しくなっている。「楞伽経」に専念して学ぶべきである。」
また、達磨大師は、「私は中国においては、この経典だけが、博愛を行うものは実践にもとづき、自ら悟りを得るものだという精神があると思っている。精神のかなめが外に現れ、精神の光が飛翔した!今後、そなたの法名は”神光”と改めるが良い。」と、何度も間を置きながら、ぽつぽつと語った。
慧可は達磨大師から仏典と法名を賜った後、共に三つの泉のところへ行ったが、そのどれも枯れていました。達磨大師が錫状で地面をつくと、第四番目の泉がこんこんと湧きでたのでした。

「9」

達磨大師が鉢孟峰を下山するのを慧可が見送り、自分達の住む小屋に戻ってきた時のことです。慧可の弟子「覚興」が水の入ったお椀をささげ持ち、にこにこ笑いながら「お師匠さま、甘いです!大師さまが今回くださった水は、本当に甘いです。お師匠さまも、どうぞお飲みください!」と言いました。

慧可はお椀を受け取って飲んだ後、微笑んで「苦味や辛味、酸味を味わい尽くしたからこそ、甘味がわかるのだよ。」と言ったのでした。

この日から、慧可は昼も夜も「楞伽経(りょうがきょう)」の勉強にいそしみ、あらゆる点から突き詰め、理解を深めたのち、漢文に翻訳します。そして、この漢訳「楞伽経」を三祖「僧燦」に伝えましたが、これによって禅宗は途切れることなく続き、次第に発展を遂げていったのでした。慧可と僧燦は、中国仏教史上有名な「「楞伽師」とされています。

「10」
伝説によれば二祖慧可(えか)は、後に「神光祖師」と名乗り、鉢孟峰で「楞伽経(りょうがきょう)」を苦しみながら勉強し、大乗仏教の悟りを得ます。そして後漢第2代の明帝のもとにやってきていた、インドの僧侶「迦葉摩騰」と「竺法蘭」が、嵩山の玉柱峰のふもとに中国初の寺院「法王寺」を建てました。そこでは金の蓮が咲いたと伝えられています。現在、大雄宝殿の前には今も「紫金蓮池」があり、池に咲く金蓮は他の場所に移す事ができず、移せば花の色が変わってしまいます。
また、慧可が二回目に南京の雨花台で経典の講義を行った時、「楞伽経(りょうがきょう)」のエッセンスを強く広めたので、信徒が倍増したばかりでなく、その素晴らしい説法に天が応えて、天から玉が雨のごとく降りました。こうして、慧可が説法を行った場所は、この故事にちなんで「雨花台」と呼ばれ、今も美しく透通った「雨花石」が産出されています。

今まで述べてきたお話は、広く人々に伝わっている有名な伝説です。少林寺南側にある鉢孟峰には、今も「にがい、辛い、酸っぱい、甘い」四つの味の水が出る井戸と、二祖「慧可」が怪我の養生を行った断崖などの遺跡が残っています。