南北少林という映画が上演された時、たくさんの人が南の少林寺に興味を持ってこの話を聴きました。 考文帝により嵩山少林寺が建てられ、李世民により福建省蒲田に南の少林寺が建てられたので、 少林寺は北と南にひとつづつありました。 西暦629年の話です。

李世民は思い出していました。 洛陽で13名の僧達により救出されたこと、そしてその時自分を背負ってくれた曇宗和尚のことを。 その後、曇宗和尚の師父である善護和尚から熱意の招待を受け、 当時の首相リショウと大将軍シンソホウらと少林寺を訪れました。 その時、曇宗は管長になっていました。 その夜、李世民は少林寺に泊まり、曇宗管長と夜遅くまで話をしていました。

李世民には心配なことがひとつありました。南の福建省では、唐に負けて海に逃げた軍隊の部下が、 反乱を起こし海賊になっていました。海から陸に上がってきては盗みなど悪いことをしていました。 政府から軍隊を派遣し捕らえに行くと、海賊はすぐ島に逃げますが、軍隊が帰るとまた悪いことを 繰り返します。 李世民は、軍隊を派遣するよりも一つの僧兵をそこに組織して、海賊を捕らえることを思いつきました。 そして、南の少林寺を建てることにより、文と武の両方を使えば悪い人達の心を納められるだろうと 提案しました。
曇宗管長は、この意見について聞かれるとにこにこしながら、僧兵たちが福建省に行って 善いことするのは賛成ですと言いました。 李世民を救出した13名の僧の中に道広という人がいましたが、彼は福建省の人間です。 曇宗管長は、僧兵のリーダーは彼が一番良いと思ったので、道広を呼んでその話をしました。 道広は喜んで引き受けますと言い、管長は合掌しました。 早速、お寺の中から僧兵達を選び福建省に向かうことになりました。 3日間かけて行なった武術の試合の結果、最終的に選んだ五百の僧兵を道広は引きつれて すぐに南へ出発しました。 そして5年後、曇宗管長が善後和尚と「五百の僧兵達は今頃どうしているのでしょうか。」 などと話していたところ、玄関から「道広和尚が帰りました。」という声が聞こえました。 戻ってきた道広和尚とその二人の弟子をすぐに迎え入れ、皆で食事をしました。 曇宗管長は、「ここの場所では色々なことがすぐに聞こえますよ。さっきちょうど あなたたちのことを思っていたら、すぐにあなたが来ました。」と言いました。 そして5年前出掛けてからその後、海賊はどうなったのか道広の話を聞くことにしました。

道広の話では、海賊は2年前に政府に捕まり法の裁きを受けました。 善後和尚が「どのようにして捕まえたのですか?」と聞くと、 「地元の人達の協力のもと、少林寺の僧の武術の力により捕まえることができたのです。」 と答えた後、道広は何か考えているようでした。
実は、この嵩山少林寺に戻る時、福建省の地元の人達に 「このまま帰らないで是非残って欲しい」と言われたのです。 そこでまず、管長と自分の師父である善後和尚に話をして決めてもらおうと思ったのでした。 善後和尚は「もし、地元の皆さんが帰って欲しくないと願っているのなら、 仏教の弟子はどこでも自分の家ですから、必ずここのお寺に戻らなくとも、 その場所で他人を助けることは善いことではないですか。」と言い、 そして、管長から皇帝にお願いをして南にも少林寺を建ててもらえば、 そこに住みながら皆を助けられるし、良いのではないかと話しました。 善後和尚は、是非いい場所を選んで建てることを望み、 道広和尚はどういう場所がいいのでしょうと尋ねました。 曇宗管長はできるだけ嵩山少林寺に似た場所に建てるといいでしょうと言いました。 これはいい考えです、と善後和尚も笑って言いました。
そして今回のことを書にしてすぐに皇帝に報告しました。 もちろん皇帝は許可をしてくれました。 道広はすぐに福建省に戻り、2ヶ月ほどかけて管長の考えの通りの 嵩山少林寺に似た場所を色々と探しました。
そして、蒲田というところで南には秋刀魚が横たわるような形の山があり、 北は9つの蓮の花が咲く九蓮山という場所を見つけました。 道広はすぐに絵を描いて、帰ってから管長と善後和尚に見せると2人は喜んでくれました。 この絵は皇帝にも届けました。唐太宗もこれを見てすごく喜び、 南の少林寺を建てる為に政府からは大勢の人が福建省に派遣されました。 同時に、唐太宗はその南の少林寺の管長に道広を任命し、華厳・阿弥陀などのお経を授けました。
道広和尚は、皇帝の命令で南の少林寺が建つことをあちこちで福建省政府に伝えたので、 皆はこのことをとても重大に感じました。

この時、皇帝の命令の書には、少林寺のお坊さんを褒めたたえた言葉と、 南少林寺が建てられるいきさつについての言葉が全て書いてあり、 これは周りに非常に大きな影響を与えました。