禅という事はある意味決めた形式は持っていません。
今回アメリカでの学会に行くときに禅師の、特に静功やる人の体験や表現を聞いて色々なタイプがありました。言葉に表現できない人もいますし、表現できた人もいました。
禅は少林寺で生まれ元々本来の思想の中に決まり事はあります。応用できるは末端の状態はそのままではない。これと水は同じで、水は柔らかいですが、強い力を発揮する事も出来ます。長い年月でかけて岩を削る事も出来ます。しかし水本来が持っている性質はまったく変わりありません。
だから世の中にある禅のいくら良いものでも、その環境に適応したことを考えないと禅については分からない状態と同じと思います。これはただ本質が分からず言葉が分かっているだけです。
そのものが持っている本質が分かったら形は何でもいいのではないでしょうか。当然に中国式でもアメリカ式でも、勿論日本式でもいい。もともと禅は文字で教える事はできません。
ですが禅の事を分からない人に対して言葉で説明をしないと、禅の存在も分かりませんし、悟りについても分かる事は難しいでしょう。
これは禅に限らずやはりどのような環境も活用できるように合わせ応用していく事は大事と思います。