仏教の話しにある悪は欲からきます。個人の悪い要望において、良心と知識がなくなってしまったら、それらはいくらでもできるようになってしまいます。善と悪の判断や道徳的な約束もできなくなります。戦う意志に自分は向いてしまいます。動物の世界は、強者生存という原理があります。強さを競い、自分が欲しい物を手にする兆候があります。
もし、自分の私利的な要望だけになってしまうと、最終的には生気はなくなってしまいます。また、自分だけのための知恵も考えるようになり、開明な人でなく、ただのそれだけの人になってしまいます。人々が元々持っている優しい心もなくなり、残酷になります。元々純粋で清潔でも、私的な要望を優先するようになってしまったら、邪悪になってしまいます。人格も怖くなり、価値のない人間になってしまうのです。私的だけの要望は、これだけ多くの損害を人間に与えてしまいます。
修養によって、自分の心を浄化し、自分の思うところ、考えるところ、やっていることが個人的な要望だけのために、道徳を壊すわけではない、よい方向へと向かいます。古代の歴史上人物の道徳は、なぜ普通の人よりも尊敬され、世の中に残っているのかは、これが要因なのです。特に現代の物質発展開発は向上し、そのレベルは飛躍的に伸びています。それら物質の贅沢はいくら要求しても、最終的には満足できなくなります。犯罪とされるものも多発するようになり、それは私的な要望が原因であります。
もし私たちが古代からのそのようなことを理解し、自分自身の修養をしたのなら、きれいに浄化されよい方向へと向かうことでしょう。