勤勉素朴は、本来は真面目で道徳についての話。
でも世の中は間違いが結構あり、勤勉の意味で別の理解であります。元々、勤勉は、行動的で真面目にがんばるという事です。しかし今回の勤勉節約の意味は行動的の慎重、生活の節約ということです。
生活の節約は自分の消費の所をコントロールするという事で、ケチの意味じゃありません。ケチの意味は何もあげたくない。自分が払うべき費用も払わない、などという意味です。だから今回の場合、実際は心をコントロールする事を言っています。本来の心をコントロールして悪い意味での贅沢、つまり形ある贅沢を注意するという事です。自分の行動の管理・注意、贅沢の注意ということで、表現を見ると、ただ仕事や生活に対しての物質、生活物質や仕事態度の話ですが、禅の心は、まず日常の簡単な事の形から色々な修行の形になります。
自分の心は本来そんなにたくさんのものは必要ではない。物質的な話では、例えば、赤ちゃんの時はお腹がいっぱいになるだけで十分、他のものは必要ではありません。
人間は大人になると、世の中に出て社会的になります。そうすると自分の行動には、自らの行動や周りに対して結果と責任も出てくる。
フラフラとした行動ではなくて、注意しての行動は世の中に対しての自分の本来の心は人間の本来・本質通りの心の行動になると考えられます。もちろん今までの話しのたくさんの事は、みんな社会と人生に対して具体的な禅の状態の入り口です。まだ社会の常識のことが出来ないうちは禅の心は無理と思います。なぜならば人間が禅の状態になる為には一歩一歩が大事です。
ある人が社会的に非常に未熟なのに、急に禅の心になろうというのははっきり言って、自分で自分の心を騙しているだけです。禅の心には急に悟りを開くというのがありますが、必ず自分の人生観と人間性と繋がります。
禅の話には、はっきり言って言葉の禅が多いです。言葉は禅ですが、行動は禅には見えない。禅の心は社会的な行動の中にあります。誰でもちょっと本を読んで知識を得たら「自分は禅の心だな」って言えます。
しかし禅の心になりたいと云う事であるならば、最後は行動です。真の悟りの状態に至ると云う事は、必ず多くの修行をしなくてはならない。ですから具体的な事は、表面を見ると悟りの言葉とは全然違う。でもこれは一つ一つの各面・側面は表面とは違います。