本当の無を悟りたいのであれば寺に入らなければならないと云う事はありません。
もし本当に無の心を持っていたら常時いい気持ちで、様々な行動は社会的に合致するでしょう。勿論身の回りが平和で争いごとも無く周りは楽しくなります。
ある意味、この心を持つという事は座禅などの方法より功徳は大きいものと言えます。
一般の人の無の概念はお寺の中だけに有ると考えていますが、しかし無の修業をしている人の概念は本当の無は無の心を持っている人と考えています。
私たち人間の毎日の生活の中に道理と筋があり、これらは日常で同情といわれます。その中で道の修業ができます。 これらの意味は毎日座禅だけをして人間と離れるのではなく、自分の行動とやり方が、周りの人が平和になりいい気持ちになるということです。
もし自分がそのような心で万事を行うと仏教で言うところの功徳になるでしょう。 誠実の心とは内面外面は同じで、真実の心です。いつでも良い気持ちと一緒で付き合う、心には慈愛を持っていますから自然に表れますし、当然に他人に良い作用を与えます。 もし他人に対していい気持ちを抱くと御互いに春のような感覚になります。だから心の中が美しいというだけでなくて、それらを行動に表す必要もあり、表すことが出来たのならば平和になりいい環境になるでしょう。 無の心を育てたら次は行動で実行し、その行動が出来たのであれば環境は楽土になると感じられます。