連載  老子の道徳経解釈
【はじめに】2005.11.30 第1回

これから連載は新しい道教の内容になります。

道は、日本でもアメリカでも流行っており、禅と同じです。老子の道は5000字ほどの本に記され、歴史に残っており、多くの人が研究をしてそこから知恵をもらっています。確かにとても優秀な学説だと思います。

老子の道で、一番基本的なのは道徳経です。
道徳経には、道経と徳経の二つの話があります。
道経は、主に宇宙の根本であり、天地万物変化の根本的な道理、あるいは陰陽変化の根本について書かれています。
徳経は、人間の世の中の根本的なこと、あるいは人間はどのように世の中に生きているのかという話です。その中には、ただ哲学的なことだけでなく、人生の修行、習性、意味は世の中に対応する哲学、あるいは国を治める道、軍事の哲学や養生の道など、知恵の学です。非常に良い哲学の経典だけではなく、1つの詩を考えています。言葉の表現もとても面白いです。現代の世の中に非常に役に立つでしょう。2000年の時を経ても、光がさすものであり、本当の老子の魅力は、今尚、世の中に影響を与え続けているところにあります。

私たちの生きるこの21世紀にも、老子の道の本は、人類に大きな生きる力を与え続け、無限の可能性を秘めた生命の神秘を今も伝え続けているのです。


【第1章 衆妙之門】2005.12.4 第2回

道、可道・・・老子の大道・説明できる道

非常道・・・説明できない道・本当の永遠の道ではない

名、可名・・・作られた名前は永遠の名前ではない

無名・・・天地のシ・天地の意味は、まだ形成されていない状態で名前の無い状態・天地 万物のはじまり

万物之母・・・万物の名前をつくるということは世の中の万物の根本である母親である

故常无(こうじょうむ)、欲似観其妙・・・ いつも目的をもたない無の状態から道の無 名無形の道理、真理が見える

常有・・・常に有の目的・有る状態から道の真実がみえる

欲以観其妙・・・有の状態は、道の名前と形あることの真実を観察する

此両者同出、而異名・・・この二つは無名無形、有名有形で、同じ道が流れる。
ただ二つの状態の形、でも同じ心理

同謂之玄、玄之又玄・・・深く難しい神妙

衆妙之門・・・これは宇宙の全ての奥妙のドアである

老子は、道と名の概念の話や、有の本当の意味を示しています。道は、道路の「道」と同じで、歩くところであり、すべての天地人物は、下のあるいは守るルールの規範です。
このルールは、あらかじめ決まっていることではなく、1つの道です。この道は生まれる前、天と地に存在します。だから、天地の運動と変化の中に皆、道のことがみえます。この道を表す規律とは、普通私たちがいうのは宇宙感、あるいは、自然規律です。天地形成後、道という規律は、自然に世の中の万物の成長活動、変化、あるいは、死の中に存在しています。道は天地の形成の前にも後にも存在し、私たちの意識においてもわかります。私たちは、この道を直接見ることは出来ないし、聞こえるものではありませんが、その存在を信じます。自分のルールや規律でそのまま存在、あるいは進行しています。だからわたしたちはこの客観の規律を理解するならば、この道は、私たち自身の道となり、この世の中に失敗がなくなります。
実際人間の言葉、言語が始まってから、世の中は二つの部分に分けられます。1つは現実の世界(新気功理論の中の陽の世界)、もう1つは虚と無の世界です。現実のある世界は目で見えますが、虚と無の世界は、自分の心の中だけでわかります。あるいは、心霊から感じられます。これは、一般に人の心霊ではない。人間は今まで進化して、でもわたしたちの言語、私たちの思想の活動は限界があります。このような何百億年前からある道を身に付けること、わかることは、非常に難しいことです。しかし、この道、つまり、昔からの最高の規律を認識し、発見、あるいは開拓、理解した人物こそが、老子なのです。老子は、道徳経の中でこう説明しています。道は、宇宙の中の存在で、言葉では表現できない最大の規律であり、私たちの意識に存在している。がしかし私たちは、はっきりと身に付けることはできません。私たちは、このようなことの認識の過程として、1つの言葉をこの規律の上においておく。この大きな規律に調度よい名前は、永久に指定できません。だから世の中に絶対に変わらない真理はないし、宇宙の道も同じく変化しているので私たちはずっと研究し探すことが必要なのです。

私たち人類が、道の真理を理解するには、1つの概念としての言葉を借りて考えることと、有の奥の意味の理解も必要となります。

有は、無の中に生まれます。
この無は、無いという意味ですが、ひとつの表現の虚空の状態で、表現できない広さ、あるいは深さがあります。

有の概念は、無の中に生まれ、万物を生み育む能力状態を表します。

私たちが、宇宙の自然の一番大きな規律の認識をするときに、身に付けるべき概念です。
この二つの概念で研究していけば、道が理解できていくと思います。


【第2章 功成弗居(こうせいふっきょ)】2006.1.19 第3回

(解釈)
天下皆知美之為美--天下の人はみんな美の原因が分かったら
斯悪已-------美でないことがわかる
皆知善之為善----善の原因が分かったら
期不善已------不善のことも分かる
故有无相生-----だから、有ると無しは同時に生まれる(存在する)
難易相成------難しい事と簡単なものはお互いに補いあい存在する
長短相刑------長いと短いはお互いに比べあい存在する
高下相傾------高いと低いはお互いに充実する
音声相和------音節とリズムは相互配合
前后相随------前と後ろは相互に追随する
--聖人は無為の形でいろいろなことに対応する
行不言之事-----指示や命令はしないで、徳政での教育などをする
万物作焉始而不辞--万物は自己発展・創造はしない
生而不有------それを自由成長と活動で占有しない
為而不恃------それを自由に自分で行動して意志表示をしない
功成而弗居-----自分の事業が成功しても占有しない。
夫惟弗居、是似不去-占有しないからこそ永延と失わない

老子の考えかたは、天地万物は道から生まれ、また世の中のことは全部変化しており、わたしたちがはっきりわかるのは、万物は相互依頼、相互転換で成り立っているということである。
わたしたちは意識の概念の中に道を理解することができるのでしょうか。決まりや概念は道の変化規律がわかるようになって、私たちの意識形態のなかに製造の基準が決まり、わたしたちの生活範囲が決まるのである。私たちは東西南北、上下左右前後のどこにいるかを決め、辛いすっぱい甘い、などの概念も決めている。これらはひとつのきめられた名前、所謂固有名詞で作ってきた。
このような事とは違い、絶対的の概念はわたしたちは自分たちの五感で判断しえないが、わたしたちの特有の概念で判断する。老子の考えはもし世界は相対性があり、自分が悩むのはこの世界は変わらない。いくら頑固でもあなたは実物の規律に従って行道する。世界の万物の流れ、誰がそのような流れを指示したのか。それは全てが自然に流れる。自分は長生きしても、やがて消滅する。自分の意識で、世の中を改造したいと思っても、変えることはできない。
わたしたちの中にある沢山の概念は、相対性なので、わたしたちは美しいとき、美しくないときなどを理解できる。生きること、死ぬことの概念もわかる。善良の本質をわかれば悪のこともわかる。わたしたちが頭の中からいろいろな概念が生まれるときは、自然と道の結果に従って出てきたものである。
宇宙にも相互対立の関係があり、わたしたち人間はこういう対立の中に、ただ自分に有利な一面だけを認める。不利な一面は認めたくない。人は褒められることは好きであるが、けなされることは好まないことと同じである。
これはわたしたちの間違いではなく、万事万物相対で存在する事柄のひとつであり、人間の過ちではない。だからこれはわたしたちの認識の限界により、わたしたちは深い規律性や真実のことは理解できない。本当の道を表すことはできないが、表面的な不完全の道の概念は解釈している。道は言葉にできないが、万物に生まれて・あるいは万物の存在と力を感じられる。でも正しい表現はできない。道は絶対のものであり、対立はない。
もし道の本来のことがわかれば悩みはなくなり、自由自在になるでしょう。

【第3章 不見可欲(ふっけんかよく)】2006.1.27 第4回

(解釈)
不尚賢-----もし才能と徳のある人を羨ましがらなければ
使民不争----名誉を争うことをしないでしょう
不貴難得之貨--珍しい貴重なものを表に出さなければ
使民不為盗---皆それを盗もうとしない(できない)
不見可欲----欲望になる事物を現したり強調しなければ
使心不乱----人間のよくない願望はでないし、心も乱れない
是以聖人之治--だから国を統治する人の原則は、
虚其心-----名誉や欲望のために考える心を捨て
実其腹-----人間の腹(内面)を充実させて
弱其志-----名誉と利益を争うような意識を低くして
強其骨-----人々の身体を強くさせ
常使民无知无欲-永遠に、名誉と利益を奪い合い、争うことをなくす。
使夫知者不敢為也。-これは、頭のよい人は、あえて行動しないということである
為无為、則无不治。-無為は天下であり、治理できないわけがない。

説明の意味は、人間は人の能力を羨ましがらなければ、名誉で争うことはしないということです。 名誉を争うことで心は乱れ、そうなることで安定した生活は送れなくなります。人間としては心の 安定こそが幸せです。すごく知識が多い、能力が多い人はもちろん良いことで、尊敬されますが、そういう人に特別な地位などを与えることはよくない。これは自慢になり、自分自身にとってマイナスになる。もっと多い人もマイナスになる。人間は願望が多い動物です。特に不平等になると、人間の心は乱れ、さらに欲望が生まれ、誤り、過ちが増えます。そしてさらに社会も不安定になり、人間はもっと不安定になります。泥棒が銀行強盗をするのは、お金は人の欲望を買うことができるからです。だから老子の考え方は、人間はみな平等。なぜ人間の力で分別するのか。天地万物は道の中に生まれてから、人類が多い社会になって、このような中に段階、偉い、偉くないなどの身分の差別が生まれた。人間はもっといい社会地位の欲望がうまれる。こういう欲望により自分はどんどんいい良いものを要求する。それはなぜか?人間はいいものをもらったら、名誉とか、お金、利益、よい社会地位、よい生活、他人の尊敬を得られる。それら全てをもっている人は少ない。自分の地位は安定して守って、いろいろ他人に指示したり、他人のやる気を誘発するために、いろいろな名誉をつくって、自分の知恵、力によりこの名誉をもらう。自分の心から社会のいろいろな義務管理をして、国の支配者の目的になる。でもこれは一番の天下を治理する方法ではない。ただ一時は安定するが、一世安定はできない。この方法は表面的には有効であるやり方ではあるが、人間の欲望を強くして、最終的には大きな混乱になる。

【第4章 】2006.2.3 第5回

(解釈)

昔ひとりの韻士という人が、老子に道はどういうものなのかといろいろと尋ねていました。老子は、「道徳経」の中に「道」の名を何回も繰り返し言い強調しています。老子は、道は言葉で説明することができないといいます。もし言葉で表現できたら、普通のものと同じです。
私たちの見ているこの世界に存在する木やイス、机などは実際にあるもの。易経の中の話は形以下のものを形あるものは器、目で見えて、手で触れるものは低級なものです。高級なものは目に見えず、しかし見えなかったとしても、存在しないのではない。目で見えなくて手で触れないものをどうすればうまく説明できるでしょうか。ひとつは、うまく説明できません。説明できたとしても、聞いているあなたは理解できないでしょう。古い言葉で「牛にピアノを聴かせる」というものがあります。意味は、もし牛にピアノを聴かせても、牛はベートーベンやショパンなどとはわからないということです。ある牛はわかるが、ある牛はできない。ある人は聞いてわかるがある人は聞いてわからない。ある人は1回聴いてわかりますが、ある人は7回聴いても8回聴いてもわからない。だからそのようなことの説明は難しいのです。
仏教の考えでは、宇宙は33層次あるとされています。一つの中にひとつの大きな世界。鳥はひとつの世界、 人間はひとつの世界、神様もひとつの世界ととらえます。人間の心も一人一人異なったひとつの世界と捉え、皆それぞれがそれぞれの世界をもっています。老子の大道はひとつの虚空の状態、なんの物でも道を主張することはできないなぜなら道は形がないからです。道は人間の中に存在します。その運動は限界がなく、宇宙の全てをとらえ、世界の全てを育て、支配する力を持っています。今も道の運動の停止は見たことが無い。道の中にあるものは無限大であり、海のようなものです。私たちはずっと道の確実な概念や定義づけはできません。自分自身は根本であり、どこからくるわけではない。神様の前でも存在しています。宗教の神様も道からきます。道は形がなく、人格も意識もないのです。
しかし道は私たちの全てのエネルギーの根本であります。道はなんのことでもないが、なんでもあります。私たちは将来必ずそれを認識し、そのような規律を身に付け、その変化と発展に従うようになります。そうすることで、私たちは本当の生活と幸せを得ることができます。

【第5章 不知守中】2006.2.12 第6回

(解釈)

上記の文中に狗という文字がありますが、狗とは稲で作った犬です。昔から中国ではお祭りの時に天の神様に捧げるために作ったものです。この章では、草で作ったものではありますが、ただの人形ではありません。お祭りは、神聖なことで、宇宙の神霊や亡くなった祖先の霊魂が草の狗に宿ると言われます。人間には霊は見えませんが、霊からは私達が見えます。草の狗は霊魂の形になったもの・象徴として敬います。お祭りが終わると、霊は帰るので、この草の狗は、草の本質に戻ります。そうすることで人間の心理リラックスして、草の狗が倒れても、踏んでも、焼いても、大丈夫です。
天地間の万物の変化は、みんな一定の形に縛られていないように、また表面上では決まりがないように見えますが、実際は変化の中にひとつの規律があります。
私達はこれについて、おおまかな方向性はわかります。こういう規律は天地万物を主催しています。一定のリズムで動いていて、混乱しているわけではないのです。
私達が理解している、天と地は大自然のことですが、今の科学技術は自然界の力に対しては限界、あるいはコントロールはできない状態です。こういう自然界のちからは、何も意識がない、なにもこだわらない、何も特別に選ぶこともない。それをあらわしているのは、地球の形成や恐竜の滅亡、人間の生死でもみんな自然の中の偶然である。 そうすると、人類の生死は公平で合理的である。世の中全ての生物は、そういった規律によって変化し、生まれて死んで行き、滅亡となります。人類は自分の意識により、物の名前や仁・徳や精神を付加していますが、道は世の中には全く恩もないし政権もないし何も無いのです。だからこそ万物は、自分の道で共同し発展していくのです。だからこそ世の中の全ては、その道の恩であるとわかります。
聖人は天下を管理するときに、自由自在・無為の状態でなんでも出来る環界になります。普通の人民に忍耐もさせず、政権もせず、適当な自由をあたえます。そういう正しい規律・自然規律とルールを教える事で、同時に自分の意志によっても発展を促せます。そういう事で、大自然の無為の道を迫害しない。普通の庶民で、貧乏でも平和で楽しんでその道を歩くことができます。そうすると、天下は平和になります。
もし、聖人がこういう大道の無為を尊重しないと、自分の心に不安をや過剰な利益を求め自然の規律を破ったら、自分の思うことと違う結果が出ることになります。なぜなら、管理の中に強力な意識が働き、表面は理想の形でも、他人の理念・概念を束縛したりすると、自然の正常な規律が破られるからです。非管理者の正しい意識・心が埃をかぶってしまい、正常な発展と流れができなくなります。この状態が長くなると国は病気になります、やがて暴動等の爆発になります。
ですから私達は、聖人のように天と地のような心で、大自然の規律を尊重し、(上に立つのではなく)真ん中に立っていると、安定と発達をすることができます。



【第六章 谷神不死 2006.2.15 第7回


谷神不死、    天地万物を育てる道はずっと長生き
是謂玄牝。    万物を生まれる根本の流れ
玄牝之門     微妙な神母の道で
是謂天地根   あるいは天地を育てる根減である
綿綿若存。   流れて続いて切れず、このように存在している
用之不勤。    限界がなく、終わらないもの

道の概念がもっと進む解釈になった。ここの谷神の意味は谷神の神様の意味でなく、山の谷は空の状態の道の虚と無の表現をしている。神は神様の意味ではなく、万物を育てる、生まれる能力、もうひとつは形がないものの状態。神様はいろいろな形は決めていない。万物を生まれ育てる能力、形はない様子。大道の真髄は、繋がって止まらず、永遠に続いている。実際は五神の解釈はもうひとつある。人間は五谷、米や小麦、とうもろこし、高粱やアワなどの五谷を食べます。自然の神様は谷神と呼ばれる。このような万物が生まれて育てる神に死はない。永遠で生と死以外で生きている。宇宙の全てはそちらのところから産まれます。もし人類は道の本来の意味がわかったのなら、道の規律により、発展すると、多くのことが非常にやりやすい。大道は形はない。天地を制御し、生まれる。だから宇宙のどこでも存在し、無から有になる。また有から無になる、の繰り返し。なので、大道は無名、万物を育てる。無の意味は形、影がなく、探してもみつからない。全体から0まで。また0から全体まで。全ての中にそれが含まれています。全ては永遠で止まらず、切れない。皆、無から開始し、だから大道は根本的なものである。この根本のところを認識できることが大事だと思います。もしこのような根本的なことがわかったら、いろいろな問題の本質、解説の方法もわかります。道は非常に意味のあることであり、この道は探してみつけて、全てのものの解説をして、特別ないい状態になります。続けて生きていくうえで発展する能力となります。

【第七章 天長地久】2006.2.24 第8回

天長地久。        天は長生、地は永久の存在である。
天地所以能長且久者。 天地は長く生きていられるが、永久存在の原因は
以其不自生也。     自分のために生存できるはない
故能長生。        だから長く生きられるのだ。
是以聖人。後其身而身先。      
               聖人は謙遜し、後ろに下がることで、多くの人がリーダーの立場に               立っています。
外其身而身存。     自分が一番大事で中心である、と考えなければ、自分の生存を守               ることができる。
非以其無私邪。     だからこそそれは自分のことがない(無私)。
故能成其私。     そうすることで、自分自身の成功をつかむことができる
             (成熟する)。

天と地は始めでも終わりでも、あってもなくても、目でみて、永遠の実物である。天地永久 という言葉は、ずっと変わらないとされます。老子の考えは、天地永久不滅の原因は、それらは全て自然の存在であり、大道の規律によって運行しています。
しかし私たち人類は自分の考え、観点から宇宙の万物全てを意識し、判断します。人間自身の知恵により、大道の自然の形態を変えたい、また人類を宇宙の中心にしたい、支配したいと思うことで、天地などに名前をつけたり、階層をつくったりします。それらは皆私たち人類の意念、妄想などの考えである、だけである。人間は自分の目的を達するためには手段を選ばない。昔、中国では孫子兵法の三十六計、十二の技などがありました。最終的に私たちは大道の本当の認識はできなかった。あるいはそれらに対する認識は、偏っており、虚言性が高く、私たちは自分たちの認識が正しくないということをわかっていない。
聖人は天下の一番頭のいい人です。いつも自分のできるはずのないことはやらない。なぜなら、天地の支配の範囲は広いですが、天地は言葉を発しません。天地はしゃべらなくとも、尊敬され、動かなくとも、効果がないわけでもなく、自分のことを考えなくとも、天地は偉大な事業を成し遂げている。このような見本は、聖人は皆を真似ている。私たちがそのようなことに気付くことができれば、本来のものを身につけられ、道を知り、物になったら、自分のことだけ考えるのではなく、争いはせず、譲ること、そうすることが皆の中に尊敬の意がでてきます。全ての実物の発展、変化が自然に見えて干渉しません。そうすれば、いつでも成功することができます。
だから私たちは実際に人間になるような標準的なことはできます。天の道とはなにか、とい えば、天地万物の自然規律。われわれは天父地母といい、それは万物と私たち人物を育てます。それらは私たちを守ります。それが正しいと考えるのも正しくないと考えるのもかまいません。実際天地は永遠で永久不滅です。もし私たちが自然規律に違反したら、私たちに一定の罰になります。たとえば森林の乱伐をすると、生命の状態バランスが崩れ、どんどん悪くなります。そうやっていろいろな問題がでています。もしそうでない概念で、天地は人と愛と恩の概念はありません。天地は自分のために存在しているのではない。もし天地に人と愛と恩の概念があったなら、天地は私たち人類と同じように足りないものが出て、永遠の存在ではなくなります。人類は永遠に長くいられるには、天道を尊敬し、自分のことを考えるのではなければ、天と地の存在が強くなります。あるいは私たちは他人と一緒に付き合うときに、自分のことを考えるだけではなく、いつでも相手を優先して考えることが、最大の利益となる。ひとつのことわざに、もしあなたに他人にいい生存ができれば、自分にもいい生存ができます。
他人の思想を考え、よく尊重しなければ、自分だけの行為となり、滅亡となります。


【第八章 上善若水】2006.3.3 第9回


水は形がある状態はない。水はそのものではなく、その入れ物の形になります。水の形はだれも説明できません。 たとえば私達が水を丸い容器にいれたらその形になります。水は見て弱くて自分の性格がないように見えます。例えばダムを作って水を止めれば水は静かになります。もし包丁や日本刀で水を切ったとしても、静かに切られ、何の障害も受けません。水を空中に投げれば、水玉のようなものとなって回りに飛び散ります。もし水を狭いパイプの中に入れたら、その中を流れます。水はとても熱せられると蒸気となり、とても冷たくなると氷になります。川は水から成っており、海も水から成っています。井戸も水があるから井戸となります。湖も水があるから湖となります。
誰もが高いところに行きたがりますが、水が例え高いところにあったとしても、低いところに行きます。なので老子は、一番完璧な人間は、最も道徳が高い行動は水のようなものであると考えるわけです。水の特徴は万物を育てると、滋潤万物となります。万物と水は利益のために争うことなどせず、ずっと静かな状態に戻っています。実際水は一番やわらかい善良のものです。水はとても広い心と何も要求をしない、何者に対しても下にいる存在です。
大道の一番の本質に近いです。老子からみると、水の行動方式は勉強になるとしています。水は岩などもし邪魔なものがあったとしても、それを避けて通ります。曲がったら、完全にでき、相手に忍耐と謙遜の道徳である。これも大道の柔軟特性であります。私達人類はこの水のように世の中と争わず、広い心になることが必要です。あるいは万物を自重し、恩を返さなくても、非常に功労があったとしても、謙遜の品徳、大道の品質と道徳であります。
もし私達は大道の真髄をわかりたいのなら、自分に完全の人格になるために、正しい道を行くこと、世の中に対応するために私達は水のような道徳と品質は必要です。本心、他人を助けて、恩を返すは必要ないです。ただできるだけ相手にぶつかることはせず、一時の利益を争うこともせず、大変の逆境であったとしても、遣り通すべきです。成績がよかったとしても、謙遜することこそ、大道と同じです。他人から攻めることや、自分の悩みを苦しむこともなくなります。他人を認めることで、自分の生活を苦しめることもなくなります。老子は道徳の五千字の中で水の人格の最高を表すとし、人間と人間の交流を、水と水の交流に表しています。嫉妬や欲深い心や、相手への憎悪や警戒心。そのようないろいろな気持ちは静かで澄んでいる水を濁します。老子は私達に、水のように善用に、平和で、静かで、誠実で他人に感動する。政治においても、他人の下に行き、人の深いところを見て、心から見ています。
孔子は仁者は楽山、知者は楽水。知恵がある人だけ水の柔軟、静かの意味がわかります。水の謙遜の状態がわかります。


第九章 功遂身退】2006.3.9 第10回

持而盈之。 継続していっぱいになる
不如其已。 それより適当に留まった方がよい
揣而鋭之。 研磨して鋭い
不可長保。 そのような状態は長く続けることができない。
金玉満堂。 金と玉はいっぱいある。
莫之能守。 長くて自分を守ることはできない。
富貴而驕。 富や高貴で自慢する。
自遺其咎。 自分は自分に災いをもたらす。
功遂名遂身退。 成功したら、身を退く、
天之道。 それが自然の運行の規律である。

コップの中に水をいれていたら、コップは溢れだします。ゴムとバネをものすごく引っ張れば、割れてしまいます。このような理屈は誰でもわかります。これを自分の欲望などを抑えることを仮説し、つなげることができたら、これも理解できます。がしかし、行動する際は、できないことが多いです。なぜなら、欲の海は満足できず、人間の心はとても欲深いものです。場を読むことが大切です。勝った人は笑顔で、負けた人は悲しみます。勝った人でも負けた人でも、勝った人はもっと勝ちたい、負けた人は挽回したいと思います。その結果、勝った人は負け、負けた人はもっと負けてしまいます。中国の歴史の中に、有名な物語があります。秦の時代にも、総理大臣に李スーという人がいましたが、同じようなことが起こりました。古代から今まで、財産や地位を重視して、金や銀など宝石はずっと自分の手の元に置くことができますか?昔の高い権威は、王や貴族、あるいは皇帝は、これらをつくることができ、それらを自分の死んだ人の墓に入れていたとしても、最終的には盗まれてしまいます。そして自分の骨、死体は、荒野の中に捨てられてしまう運命なのです。お金でも財産でも権威でも、永遠に流れており、その人だけの所有物にはなりません。もし私たちの道徳が、財産や権威の考え方をそのようなものだと認識できているのであれば、天の存在となります。老子は強いの反対は弱い、硬いの反対も柔らかいとしていますが、弱いものは強いものに勝て、柔だけは硬いものに勝つことができると考えています。
満足しすぎると溢れて、鋭すぎると折れてしまいます。いっぱいになるものは、もういらない。成功できたのであれば、一歩下がることを忘れない。それが自分を守る一番の方法です。老子は、皆に逃げよ、と言っているのではなく、また自分の秀でているものを他人に自慢し表さなくてよいとしています。いつでも人間の本性、自然の大道を忘れてはならない。日本の現代の事情もそのようなところがあります。堀江さんにおいても、会社を立ち上げるだけでは満足せず、議員をやろうとしたことがありました。経済は経済。政治は政治の分野であり、これはひとつの老子の道を表していると思います。



【第十章 專氣致柔】2006.3.16 第11回

載營魄抱一、  精神と形態を合一
能無離? 分けられないですか?
專氣致柔、  專氣を集めることで、柔らかくなる
能嬰儿?  赤ちゃんのようになるのか?
滌除玄覽、  ~の雑念をきれいに洗うことは、
能無疵?  ひとつの欠点はないですか?
愛民治国、  民衆を愛して、国家を治め、
能无知?   才能と知恵を使わず無為になれますか?
天門開闔、  人間の内部の感覚と外部の接触は、
能无雌?   静かと柔らかくなることはできますか?
明白四達、   実物の理屈をいろいろ理解できたなら、
能无知?   知識はいらなければならないでしょう?
生之畜之、   でも、成長の万物を生養しなくて、
生而不有、   万物のためにいろいろ助けて占有しなくても、
爲而不恃、  それも苦労と思わず、
長而不宰、  万物を養生滋養して、でも主宰せず、
是謂玄徳。   これは自然無為の一番深い道徳特性である。

人間は外見ではなくて、あなたの魂、あるいは内部の精神と肉体はいつでも一緒になっています。私たちは自身の認識の限界と偏りにより、多い間違いを犯します。なかなか戻らないことがあります。心はありますが、力が足りない。力はあるが、心は足りない。私たち人類の魂と肉体はいつでも一緒であるわけではありません。多い時間は分裂の状態です。私の魂と精神は高いと思っていますが、肉体に負担はかけられません。私たちいろいろな大きな希望は、いつでも残酷な現実の前に非常に弱くなります。これは人類の一番の悩みです。これは私たちの心理と生理の非常になります。このような現象は天地の万物の中で、人間だけにおこります。他の万物は自然のままで規律、法則で、道の方向に進んでいます。魂と肉体はいつでも一緒になります。どんなことでも、意識と判断はしない。他のところに作用もされません。私たちは精神と肉体は一緒になれている時期があります。それは赤ちゃんのときです。産まれたての頃は、みな混同の状態です。人間的な不愉快な状態もなく、意識的に実物の発展の状況も把握できません。ただ自然のままでうける。当然に悩み、苦しむことは何もありません。しかし私たちは大人になったら、経験が増えて知恵は増え、物事に対する自分の考え方がでてきて、自分の習慣的な認識がでてきます。そうすると、赤ちゃんの時期の純粋さはなくなってしまいます。魂と肉体は離れてしまい、生まれた頃に感じた世の中の純粋な捉え方ができなくなります。柔軟と順調は、赤ちゃんのようになれるとしています。どのようにすれば、純粋になれるのか。禅宗六祖の神秀は、心は明鏡であり、常にふいて埃をかぶらせないようにしています。そうすることで、天徳、あるいは自然の深い特性、人間の修行の形により現します。これは仏教の禅の老子、道経の道と結びつきます。

【11章 天之為用】2006.3.23

三十輻共一轂、  例えば 三十本の棒が一点に集まり
当其無、      車輪の真ん中には空っぽの穴があって
有車之用也。   そこに車軸が入るから車の用を為す。
挺埴以為器、   土をこねて器をつくる
当其無、      それはその中が空っぽ
有器之用。    だからこそ器の用を為す。
鑿戸以為室、  ドアや窓などで部屋を形どって
当其無、      それはその中が空っぽ
有室之用。    だからこそ部屋となる。
故有之以為利、  つまりあるということは、人にとって有利になり、
無之以為用。   無も人に利用される。

昔の台車の車輪は、真ん中が空いているので、そのものの利用ができる。焼き物や陶器も、器としての空の形をとることによって、利用でき、部屋も中が何もないので私たちはその中で生活できます。だから世の中の実物は、それぞれの形で存在してその形自体は皆意識しなくても見えますが、無の、何もない場所、状態を意識しません。
老子は例をあげて、有と無の関係が矛盾統一してあります。有の同意語に無、有の異義語に無。有は無と離れず、無は有と離れず、世の中のものは、有から無、無から有になります。
人類はいろいろと研究することで、多くの実物は固有名詞をつける際、色、形、体積、重さ、質量等で判別します。例えば、猫を見かけて、その形を猫という識別の秤にかけ、猫と認識し、名詞がつけられます。また、猫は色々な種類があり、もっと詳細に分けると更に三毛猫などの種類になります。花も、犬も。私たち人間はいろいろな角度から研究し認識し、世界の多くのものを無の状態から有の状態へと換えます。
また無というものは、見えないものですが、私たちは鬼や幽霊、神様などいろいろなものを見たことはなくとも、信じ、それらをお寺や神社に仏像や鬼などを形としてあらわしています。本当の神様や鬼の形はわかりませんが、無からの有であります。これは人間の生活の中での想像であり、人類生活を大きく捉えた中で仮に、天の上でも人の世界があるとし、仏教でもキリスト教でも、神様は人間よりも超能力を持っているとしています。また、現代科学技術の発展によって、今まで見えなかった、原子や分子の形を知ることができるようになり、無からの有となりました。多くの知識がこのようなことがわけられます。
また、世界の多くはある土地、財産等を奪い合うことで争い、それらは役に立つ有とされています。これら有は、無から着ました。無は仏教でいうと虚と空、としています。有ものは最終的には虚と空であり、それらのことで争うことは、意味を成さないということです。人間の社会の中で、表面的な現象に惑わされず、裏面の無の存在をもっと認識することが重要で、そうすることで人生や事業を成功させることができるでしょう。


【第十二章 去彼取此】2006.3.30
五色使人目盲、      いろいろな色を混ぜ合わせてしまったら、人は色を見分けられない
五音使人耳聾。      多くの音を一度に聴くのは、雑音となり、聞き分けられない
五味使人口爽、      多くの味わいを一度に味わうこともできない
馳騁田獵令人心発狂、 野薔薇を騎馬で走り回って人間の心も狂ってしまい、
難得之貨令人行妨、   珍しい宝物は人間の行動は誤ったものとなります
是以聖人為腹不為目、  だから聖人は内在を大切にし、表面的な美しさは要求しない
故去彼取此。        だからそのような美しさを求めず、安定を手にした方がよい

仏教の中に般若羅?多心経に人間の六感がありますが、この状態を感じられたので、人間は6情が感じられます。喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、想い、哀しみ、という6つの感情です。これは人間の心の要望を生み、ときには心の奥で埃をかぶったままでいます。そうなると、私たちは世の中の本当のことを理解することはできません。私たち人類は鋭い感覚をもち、それは悪いことではありません。外部との接触のときにコントロールできなければ、どんどんそれらの欲求は成長して、私たちの感覚をだんだんと鈍らせます。私たちは、目は見るため、舌は味わうため、耳は聞こえるため、という意識を感じられます。美しいものの色は誰でもみたし、綺麗な音は誰でも聞きたいし、おいしい食べ物は誰でも食べたいです。しかしこの中のひとつにおいて、どれくらいまでするかということ。
老子の考えは、素朴に、無欲に、というものです。人間の物質の欲に翻弄されてしまったら、心も体ももっていかれてしまいます。世の中に五色、五音、五味は、感じすぎになると、体に支障をきたします。おいしいものだけ食べて、好まないものは食べないなどばかりしていたら、栄養バランスが崩れ、病気になります。外部においても、人間の食材確保の氾濫で生態系の環境も崩れてしまいます。外部の物質や自分自身を意識的に変えるのではなく、自然の調節に任せるとよいと思います。


【第十三章  寵辱若驚】2006.4.6

寵辱若驚、   人に大事にされることとばかにされることで驚き、
貴大患若身。   重大な問題を重視することは、自分自身を重視することと同じ。
何謂寵辱若驚?   なぜ、大事にされたり、バカにされたりすることは驚くのでしょう?
寵爲下、   大事にされる人は低い立場に自分をおき、
得之若驚、   大事、尊敬を得ると驚きになり、
失之若驚、   大事、尊敬を失うと驚き、
是謂寵辱若驚。   これは寵辱若驚である。
何謂貴大患若身?   重大問題をを重視することは自分自身を重視することと同じなのは何ですか?
吾所以有大患者、   我々が大きな問題がある原因は、
爲吾有身、   私はこのような体をもっていて、
及吾無身、   もし私の体がなくなったら、
吾有何患!   私は何か問題があろうか!
故貴以身爲天下、   だから天下国家のために自分の体をも捧げる人たちに、
若可寄于天下、   世の中のことはその人に任せ、
愛以身爲天下者、   自分の体を愛するような天下の事を頑張る人に
乃似可托天下。   天下のことを任せる。

今の社会の中では尊敬されたり、ばかにされたりすることがあります。良い成績を得て褒められたら、誰しも嬉しくなります。また、仕事の失敗や、怒られたら哀しくなります。どちらにしても、驚きという感情が表れます。当然に人間は褒められたり、大事にされたいと思います。しかし違う方面からみれば、他人から注目されたり、好きになられたい気持ちは、自分が他人よりも足りていないのです。好かれたい、注目されたいという感覚になり、他人よりも低いと感じます。老子の寵辱若驚とは、皆が上で自分が下とすることで、封建社会などで、褒められたり恥ずかしいというのは瞬間的なことです。現代社会の中では、褒められて嬉しいなどは、とことん失ったり、そういう概念があるからこそそうなります。そのようなことに対して執着せずに、コントロールでき、一時の名誉や賛同に左右されない。世の中に自分の体を皆もっていますが、自分の体のために戦ったりしますが、一定の失うものや得るものがいっぱいあります。競争の激しい中で、平常心があれば、失ったとしても、驚き恐ろしいと感じなくなります。自分の体や心が強くなることは、自分を向上させることができると考えられます。


【第十四章  无象之象】2006.4.14



今回の話は、道は、どういう形で表現する。
或いは、道の形象・規律を説明しました。
目で見えないが、存在するものを否定するのは、いけない。
例えば、あなたは、立って遠くを見ると地平線が、見えるとします。
あなたの目で見えるのは、地平線だけ、その景色は、他の物は見えない。
でも、そこに何もない訳じゃない、実際は、あります。
そうすると、道は、どういうものですか?
道は、目で見えない、耳で聞こえない、触るも触れない、私達人間の感覚では、認識出来ない。
概念で分析と判断は、出来ない。意識で体験できる。精神からその自立規律に近づきます。
道は、宇宙万物の主催ですから影もない・形もない・意識もない・光もない・暗くもない・進退もない・停止と運動もない・相対性もなく永遠の状態・生きてるは、止まらない。ずっと繋がっている。永遠である。
道は、また、探せない状態になる。つまり、私達の感覚は、恍々惚惚と解からない。
始めもない・終わりもない・左もない・右もない・前もない・後ろもない・私達は、その形象は、見えない。声は、聞こえない。でも、道は、いつでも私達と一緒に存在しています。
行動の規範となっています。全世界は、道の中に生まれます。宇宙全体は、道の存在を表します。 これは、道の規則です。道は、私達の行動の標準です。道とは、そういうものです。 もし道を離れると、私達は、何も出来ない。道の規律に従わないと、私達は、必ず失敗します。 でも、道の規律に従えば、いつでも失敗する事は、ないでしょう。


【第十五章  微妙玄通】2006.4.21



解釈
これは、老子が、私たちに、道を身に付ける人は、どういう道徳感を持ちどういう品質なのかを伝えています。
大道は、非常に微妙で、常に変化し続けます、形のことは、いえません。道の筋や跡も探すことは、出来ません。 深くて図ることも出来ない、余地も出来ない。だから、目で見えなくて、触ることも出来ない、玄妙なものです。 このものは、あっても、無くても、見たいですが、でも、もし、この道が、無ければ、人類も消失する。世界の全ても消失する。 だから、私たちは、いつでも道とともにあり、道から外れることは、出来ない。
それは、魚が、水から離れられないのと同じです。いったん、離れたら生活が、出来ない。魚は、水の中に生存しています。 でも、魚自身は、水は自分を支配しています。魚は、逆に自分は、水を支配していると思っている。でも、魚が水を離れたら、やっと気がつくでしょう。水は、魚の生命の源泉だということが。魚は馬鹿みたいですが、実際、人類もこの魚のように馬鹿みたいなものです。
私たちは、太陽の中に無欲。風を浴びて、ビーチを歩く。森の中に歩く。テンポ良く歩く。森林を育てる。自由自在に呼吸する。 実際、こういうことは、大自然が私たちにくれたもの。あるいは、どう、私たちを創造したか。でも、私たちは、そういうふうには、一般には思っていません。自分は、天地の中の主在であり、私たちが、天地万物を創造した、と思っている。 だから、私たちは、天に感謝をしたくない。だから、全てのこういう真実をわからない。
もし、ある日、そういう大事なものを失ったら、その時初めて、私たちは、人間は、一番馬鹿な存在だということが、わかるでしょう。或いは、それの存在の重要性が、わかります。これは、水と魚の関係。水の重要性と同じです。或いは、環境を守るのと同じです。
道を離れたら、私たちは、生存出来ない。ということは、これで理解できたでしょう。しかし、本当の道は、誰が、どれくらいの人が、理解できるでしょうか?実際、道は、目に見えない、触れない、聞こえない、でも、実際、私たちは、体で感じられます。
例えば、冬、川に氷が張っていて、その上を歩くとき、私たちは、非常に気を付けて歩きます。氷が、薄いところをもし歩けば、氷は、割れて、冷たい冬の川にたちまち落ちてしまいます。これは、実際、道を理解したい人は、参考にしなければならない行動です。 自分は、自ら自分を危険な目に合わせないように。大変な状態にしない。人間は、そういう、感じ、観察の時に、なんとなく発見できることは、道は、だんだん順調に繰り返し進行する。道は、いつでも外に自分は、アピールしない。黙っている。道のこういう特性が、わかったら、必ず、表現しなくてもいい。
もうひとつの道の特徴は、意味は、自分で何も制限ないことは、しない。謙遜して、他人を尊敬する。そうすると、自分は、絶対、他人にいばって、氷や雪を溶化するように、自然のままに、あらゆることに執着しない。道は、全ての人、全ての事に対して、公平と素朴に存在します。あらゆる物事に対して、非常に誠実です。もし、私たちは、道のこういう特性が、わかったら、人間社会の付き合いのときに、計算無く、礼儀正しく、そうすると人間付き合いもうまくいくでしょう。自分の心に、深い谷のような、深い力があったら、他人の汚れや、欠点なども受け入れることが出来ます。絶対に自分は、他人を恨んだり、嫉妬したり、そういうネガティブな感情も無くなり、自分自身の苦しみや悩みも自然となくなります。
こういうふうにしたら、それは、道を理解できる人間のやり方です。だから、静かなときに、深い谷のように、流れるときも自然なままで流れます。どこにも止まらずに、どこでも迷うことなく、自然に逆に自由自在に流れていきます。 他のことも、無理に相手を変えるとか、環境を変えるとかは、考えずに、自分の自然のままに、ありのままに存在し、行動します。
いつでも、道と一緒に。
そうすると、自分の行く道に何も困ることも無く、どんどんどんどん変化し、発展していきます。

【第16章 虚極靜篤】 2006.5.03
原文            訳
致虚極、      虚無の状態に入ると、
守靜篤。      安定のすごく静かな状態に守る
萬物并作、     万物は自由に成長する
吾以觀復。     存在の往復循環を観察する
夫物芸芸、     天下の万物は色々変化するが
各復歸其根。    みんな最後は本来に戻る
歸根曰靜。     根本に帰る事を静と言われる
靜日復命、     このことを生命の起点を言います。
復命曰常、     生命の起点を常と言います。
知常曰明、     もし常を知れば聡明です。
不知常、      常を知らないで、
妄作凶。      行動をすると危険なことがある
知常容、      常を知ると包容になれます。
容乃公、      包容であるということは、広い心であるということ。
公乃全、      広い心であるということは、王者の徳があるということ。
全乃天、      王者の徳があるということは、天と一体であるということ。
天乃道、      天と一体であるということは、道であるということ。
道乃久、      道であるということは、永遠の存在であるということ。
沒身不殆。     すなわち道であるということは、一生危険なことにはならない

解釈
道はひとつの虚無、山や谷の境界のようなものである。
もし私たちの心が、広い状態になり、清浄無争の心を護ったら私たちの人生は危険と失敗はない。なぜならば道と通じるからである。自然規律に合わせるからである。
しかしどのようにしたら清浄無争になり、自然規律に合わせられるようになるか?ただ一つ、欲望を捨てて、生命の根本に復する事。
私たちは蜂や蟻の忙しさをよく見ます。
しかし私たち人類は蜂や蟻などよりも忙しいと思います。蜂と蟻などの忙しさは生命を維持するための自然規律で、私たちの忙しさはそんなに単純なものではない。生命維持のためだけではなく、名誉や利益を追い求めるために忙しい。私たちはもっと生存の豊かな状態を希望する。
私たちが生まれたばかりの時は物凄い単純。ただお腹が空くだけの感覚だけがある。
ただ食べるだけ。世界にはまだ贅沢な事があるとは知らない。だんだん成長してゆくと徐々に世界の事がわかり、希望や欲望などの欲求が出てくる。欲求は一定の程度になるとコントロールできない欲望になる。これは癖になって、逆にやめることのできないものとなる。私たちの目がこの欲望によってかぶれ、霞んでしまうということは、私たちの心に埃や垢がついていると言う事です。実物本来の状態は理解できない。
欲望は生まれた時の単純さを忘れて、私たちは自分の生命の根本にもどる真実も忘れる。
自然規律の本来の意味も忘れ、賑やかで華やかな雑音の中に沈んで、静かな心を保てない。
私たちは無為自然のままの状態になれますか?なれます。本性から離れたら、できる。だから私たちはもし道の正常無為の根本がわかったら自然に全てが心に入ってきます。自然に欲望から離れます。これは爽快清涼だと思います。

【第17章 功成身遂】2006.5.18
  原文              訳
太上、下知有之。   民衆は最高のリーダーの存在を忘れる
其次、親而譽之。   次のレベルでは、民衆はリーダーを慕い、褒める。
其次、畏之、      また次のレベルでは民衆はリーダーを恐れる
其次、侮之。      そしてその下のレベルでは、民衆はそのリーダーを軽んじ、侮辱する。
信不足焉、       リーダーの誠信がなければ
有不信焉。       民衆は自然と不信になる。
悠兮其貴言、      リーダーは言動を大事にして、簡単に軽く命令しない
功成事遂、       だから事は自然に成功する。 
百姓皆謂我自然。   そして民衆は「自然になっただけだ」と話す。

解釈
老子はこの章にリーダーの知恵を表現。
老子は言います。大道は話さない。しかし自然規律の永遠に存在を私達に教えている。
道は何の事やっていない。しかし万物の成長のエネルギーをあらわす。
これは大道の真実の境界。私たちが気付かない作用。
最高のリーダーは道のよう色々と行う。
老子は、リーダーを四つのレベルに表せると言いました。
最高レベルの太上は主に話は古代の時代。そのときに中国伝説の皇帝。
皆は生活リズムを乱れずに、日が昇ると仕事を始め、日が沈むときに仕事を終える。春は生、夏は長、秋は収、冬は存、とすべて自然の規律にまかせた。つまり人間の意識を大自然にまかせる。 リーダーというものを民衆には感じさせずに、民衆を自由自在に生活させる。このようなリーダーは天のように大地を見ている
つまり民衆がリーダーの存在を忘れてしまうということだ。老子が私達に教えてくれる道はこういうものだ。道はどこでも存在するが、主張をしない。それは天から来た太陽と水のようなもの。
次のリーダーの順番は、大道のように行動はできないが、人間の生活を良くし、苦しいから離れて楽しい事にする。民衆は自由を持てる。だから民衆がリーダーを褒め、愛す。その存在を感じると同時に近づきたい。
次のレベルのリーダーは、それの行動は、前の二つの行動とは本質が違う。自身が高いところに立ち、民衆はその存在を深く知る。でもこの存在は幸せを持ってくることではなく、負担をもってくる。正常の生活は乱れ、民衆は恐ろしい気持ちを持つ。
最後のリーダーは一番悪のリーダー。そのリーダーのことを話すときには侮辱し、軽く見る。このリーダーは2種類ある。一つは残酷なリーダー、もう一つは無能の人、変なこと聞くばかり、でも行動を起こす事になったら、自分本位の行動ばかりをするが、自分自身の考えを持っていないが為に、民衆に巨大な苦しみを与える。このようなリーダーは昔よくいました。
だから、もしリーダーになりたいというのであれば、太上か次のレベルのリーダーを目指すべきです。そうすると皆に平常の安定の環境を作り、民衆は自由発展の機会があります。

【第18章 大道廃焉 】2006.5.25
 原文         訳
大道廃、    無為自然の大道が廃れた
有仁義。    だから仁義といういうのが出てきた
慧智出、    (大道を無視したから)権利を争う事や商売と利益の為の知恵もでてくる
有大偽。    だから虚偽、虚飾などが出てくる
六親不和、   (大道を無視したから)家庭や親戚の仲良くならない 
有孝慈。    だから孝行や、慈愛という事が説かれた
国家昏乱、   (大道を忘れ去ったから)国家が乱れ、動乱がおこり不安になる 
有忠臣。    だから忠臣というものが出てきたのだ

解釈
私たちは道から遠く離れ、私の生活はみんな同じの状態になる。
そんなに大変じゃない。これはどうしてなのか?
これは社会の中に色々な決まり、規則が生まれ、規則は私たちを道から離れるときに、もっと混乱にならないように出てきたものだ。
いろいろな政策、法律、決まりは賞罰の制度を決めて決めて社会を正常に運転している。
人間の生活は安定している。
人類は道を離れて足りない所は、その為にいろいろ有為に行動にします。
意識的、計画的に行動するが、これは道教でいう無為自然に反している。
私たち政策でも法律でも、規則でもみんなその中に対立の事を決めた良い事や悪い事などをきめた。だから正しい事や間違いの事などの差別もこのとき決まった。
良いものは賞を与え、悪いものは罰を貰った。現代の人類社会は 有為な動作の中に相対的な安定の状態を持っています。だから相対の概念というのは私達の有為の根本に従う基準があります。善と悪、美と醜や上下前後左右、大小など一方が無くなったら表せない。

【第19章 少私寡欲】2006.5.18
 原文            訳
絶聖棄智、    知恵も全て棄てるならば
民利百倍、    民衆の利益は百倍になるだろう
絶仁棄義、    仁を絶ち、義を棄てるならば
民復孝慈、    民衆は孝と慈に戻れるだろう
絶巧棄利、    巧くやろうとする事を絶ち、利益を棄てるのであれば
盗賊無有。    盗賊や悪人は居なくなるだろう
此三者、     この3つの言葉を
為文不足、    書くだけでは足りない。
故令有所屬、  民衆の認識を帰属して生きる
見素抱樸、    外観だけでなく、内観し純朴になり
少私寡欲、    自分や欲望の事を少なく、
絶学無●。    学を絶てば、憂慮は自然になくなる
(●は「りっしんべん」に「尤」)

解釈
この章で老子は初めて絶聖について話した。字を見て、聖明をきって、知恵を棄てるということです。
一般の人の考えは、賢明はなぜいけない?知恵はなぜ間違いか?と思います。だれでも知恵は貰いたいでしょう。誰もが賢明になりたいです。しかし実際は、人間に知恵あっても、聖賢になるわけではありません。人間は賢明や知恵を希望する。これはいい事ですし、老子もそのように思っています。ですが、なぜ世の中に賢人が多くなっても悪人は少なくらないのでしょうか。
人間にもし知恵なければ、石や木のようになるでしょう。しかし石や木は知恵なくても構いません。石や木は知恵があるように飾ったりはしません。また、他人にも自分にも損害を与える事もない。ですが人間は知恵がなくても知恵あるように見せ、もし知恵があっても正しい方向へ使おうとしません。他の人へ損害を与え、最後は自分も損害になる事をする事に使います。これは怖いことです。私たち人間は大昔のように仲良くじゃなくて、一番や二番など差別も出てきている。利益の為や、色々な陰謀を使う事、惨殺や疑う事など、このような事は全て知恵より出ています。
老子の考えは、リーダーは人間の知恵を認識し、人間の本質を理解する。そうすると人間本来に立ち返る。絶聖になり、虚飾は捨てられ、真実の安定を見つけられる。
人間本来は道の大道の規律に従い、本質の理解をすると、正しいと間違えの概念もなくなり、仁義と不仁義の分別もない。分別の心もなくなったら争いの心もなくなり、人間と人間との間も自然に平和となり、生活にも安祥になります。

【第20章 獨異於人】2006.5.25
原文              訳
絶学無憂。       学を捨てたら悩むこともなくなります
唯之與阿、       従う事と反する事は
相去幾何?       どのぐらいの差があるのだろうか
善之與惡、       善と悪
相去何若?       どのぐらい差があるのだろうか
人之所畏、       人間が怖いものは
不可不畏。       私も怖くなる
荒兮其未央哉!    広い場所に宇宙の道理に限界はない
衆人熈熈、       みんな喜んで
如享太牢、      酒宴の席にいるかのように
如春登臺。      春台のきれいな景色を見ているかのように
我獨泊兮、其未兆、 だが私の心は静かで心を動かされない
如嬰兒之未孩。   生まれたばかりの笑いもしらない赤ちゃんのように。
儡儡兮、       心に心配あるものか
若無所歸!     自分が帰る場所に見つけない
衆人皆有餘、    皆は豊かで余裕がある
而我獨若遺。    私だけは失うみたい。
我愚人之心也哉。  私愚人の心は
沌沌兮!       混沌無知である   
俗人昭昭。      世の中の皆は目が覚めて明白だ
我獨昏昏。      私一人だけは眠たい様子としている
俗人察察。      世の中の皆は、はっきりとわかる
我獨悶々。      私一人だけは混乱の状態
澹兮其若海、     みんなは有為ある
●兮若無止。     私だけは頑固みたい
衆人皆有以。     海のようにわかりにくい
而我獨頑似鄙、    限界はない、しかしあいまいではっきりしていない
我獨異於人、     私だけは他の人と違う
而貴食母。      実物の根本を注意している
(●部分は風に?)

解釈
この章で老子は「道」のわかる人は、独立の人格と性格があると言っています。具体的な話は、老子はその状態と限界を説明した。 一般の人はたくさんの悩んでいる事や大変な事の不用は区別の心は強すぎです。何のことでも自分は比較・選択できると思っています。 しかし道のわかる人は規則・原則・定義にこだわらない。道をわかる人は何の分別もないので、悩みも生まれないのです。 道の人と一般の人の違いは、世の中一般の人は美しいものを追求し、醜いものは追及しません。もし美しいものを追求できないと落ち込みます。たとえば他人の奥さんを見て綺麗と思うと、自分の奥さんに対しては別の気持ちになります。でも道の気持ちがわかる人は万物すべてに対して平等ですから、美しい醜いの区別がありません。 一般の人は酒宴の席では何でも忘れて、楽しげに過ごし、春になると山の上できれいな景色を見ては感動しますが、道の人はどんな場においても静かな心の世界です。今見ている外部の世界は、すぐになくなり、本質のものではない。 だから人間が怖いものは道の人でも怖い。たとえば人間を害するものなど。世の中は名誉欲、利益欲が好きで自身の欲を満たそうとするために色々争いが起きたりもします。貰うのが多い方が、生活は豊かと感じられる。でも道のわかる人は外部の実物から作用になります。 ひとつの話しで、忘れごとの多い一人のお坊さんが自分はだれであるかを忘れてしまった。みんなが思うことは「このお坊さんは本当に頭が悪い」 でもこの老子の話の中では、お坊さんは愚人です。そうすると自分と他人の分別も無くなりましたので、これは道の状態です。だから頭悪い人は、世の中を目で見ますが実際の心は空と虚の状態。総てのものはその人として自分は存在していない。心の中は空と無の状態、何にも関係ない状態ということです。そうすると自由自在になれます。 軽くて心の状態になると、道の根本をわかる。道と併せると、万物万事と自然のままで、海のような心になります。 道の中の話では、「順調と反対」「美しいと醜い」「善と悪」どのぐらい違うのでしょうか。 老子の考えではそんなに違うことではない。順調から反対にいくかも知れない。だからもし喜んでいること、楽しいことなどは淡白な気持ちで執着せずに、欲望に対して心動かなないと言うことが、ある意味生命の根本に注意する道の感情です。


【第21章 孔徳乃容】2006.6.1
原文       訳
孔徳之容。   大徳持っている人は、全ての事に対して謙遜で心を広くし何でも入れる。
惟道是従、   ただ道についていくだけです。
道之為物、   道というのは
惟恍惟惚、   もやもやしていて、あるものと無いものの間
惚兮恍兮、   はっきりしていないのですが、
其中有象、   でも万物の形象をもっている
恍兮惚兮、   隠れてあいまいでハッキリしていないのですが
其中有物、   実物の気質をもっている
窈兮冥兮、   暗くて深くて遠くて形は身に付けないのですが
其中有精、   でも実物の本質を持っている
其精甚眞、   この実物の本質は現実のように
其中有信。   その中に信頼の内容を含めている
自古及今、   昔から現在まで
其中夫去。   その名前は一切変わった事が無い
以閲衆甫。   そっちから万物が生まれる目を認識する
吾何以知衆甫之状哉?   わたしはどこから万物が始まった状態を理解できるだろう?
以此。     私は道より理解ができます。

解釈
老子この本の中に道だけではなく、徳も話します。
この章で徳の言葉を始めて出しました。老子は約5000字の漢字で道徳経を記しましたが、道という漢字は約70回書いてあります。さまざまな角度から説明しています。
道は無形のもので、五感では感じとれず、意識だけが認識しているものです。
徳は道を表す、例えば、誰も道の形は知りませんし、見たこともありません。でももし実物があったら私達は道の様子がわかります。
例えば、ガラスのコップの中は空の状態で、もし水を入れたら空じゃなくなります。だから私達はコップから、空と不空の概念がわかりました。コップが無ければ虚空の状態は形象で理解できるようには出来ません。道はもともと説明できません。はっきり説明できる道は道じゃありません。だから老子は、いろいろな方法で道の存在、真意、あるいは形、道の重要性を教えました。
老子の道は、先ほどのガラスのコップで空を説明したように、コップが割れたら空の存在はなくなりますが、他のコップでは空の存在はあります。私達は他のコップで空の様子もわかります。これは道の存在の形です。道はコップの中においてあります。コップいっぱいの水、遠くから見ているときに一般に人は水の存在はわかりません。でももしコップが割れたら見ているのは水だけになります。だから道はどこへ行った?わかりません。でも水は道を表します。この意味がわかったら、徳は道の意味は人間の体を表している事がわかります。道は徳の根本で、徳は道の表面をあらわします。水が流れるときは地面の形に変化し、徳は道についていきます。
徳と道とは相互交流でこれが、道徳体型の根本になります。これは正しい宇宙観と人生観を表します。そうすると道徳の根本もわかり本質も理解できます。そうして理解できると世の中に対しての行動にも役に立つと思います。

【第22章 全而歸之】2006.6.8
原文                  訳
曲則全。        曲がっても逆に完全に護ることができる。
枉則直。        曲げての事物は逆に伸ばすも出来る
窪則盈。        低いところに水など集まることも出来ます
敝則新。        古いものから新しいものも生まれます
少則得。        本来は少ない得るものは出来る
多則惑。       多い其の本質を迷っている
是以聖人。      だから聖人の様に道を本意を護っていると
抱一爲天下式。   これは天下の標準である
不自見故明。     自慢しないで 真理をもともと見える
不自是故彰。     自分のことだけを見るのだけで表すことも出来る
不自伐故有功。    自分の事を褒めなければ自分の功労はあります
不自矜故長。     自分を尊敬しなければ、長く生存できます
夫惟不争。        他人と争うことしない事こそ
故天下莫能與之争。  他の人はその人と争わない
古之所謂曲則全者。  古い諺の「委曲求全」は
豈虚言哉。        一つの無用の言葉ではない
誠全而歸之。       確かに自然に応じていい結果になる

解釈
私たちは道を表す。道の為形無為を表現しています。
だれが徳の存在を表していますか。
私たち人類である。私たち生活の中の一つ一つの行動はみんな徳の本質を表します。
皆、道の本来の意味のひとつの説明あります。
たとえば、蛇の体柔らかいですが、足はありません。でも体は柔らかいですから、曲げて何のものでも登っていく事が出来ます。
体が柔らかいから地面が高くても低くても進行の邪魔は出来ませんし、細い場所に入ることも出来ます。 自分自身を曲げて頭だけは出しても体を守る。そうすると敵はどこを攻めればいいのかわからない。
このように私たちは固定の形をあるいは時間と場所によって変化します。道は実際このようなもので、徳は現実の中の道を表すだけのものですから、徳も同じです。 そういう事は一つの自分の一つの低い姿勢で自分に生存するようになります。
自分はいつでも低い姿勢であり謙遜し、争わなくて、自慢せずに、生きていくと自分の辛抱になります。世の中は相対性があります。新しいや古いや高い低い、直と曲、少ないと多いなど。
人類の行為は結果もすべては相対です。すべての相対の矛盾の対立の中に変化があります。これは変わらない真理で道です。
だからもし私たち人間は社会に皆に自分のことばかり考えじゃなく人のことを考え、誠実で心広いというのは、人間の本性でもある。これは同じ道を表します。
体の中はやわらかくて空と虚の状態で、あんまり威張らずにいると、他人と争わないでいれます。これが本来の道の状態で徳の概念でもあるのです。
もし大徳わかったら、すべての本質がわかります。自分が我慢するのも気持ちのいいことになります。なぜ水が低いところにたまるのかもわかります。そういう道理もわかります。世の中に対応するとき、欲望もなくなり争うことがなくなります。
いつでも自分は沈黙で低い立場で、他人からの嫉妬と攻撃は無くなり、世の中の苦しみはなくなります。

【第23章 希言自然】2006.6.15
原文                  訳
希言自然。         少なく話しする少なく命令は自然法則に合う
故飄風不終朝、     荒い風が朝だけ吹きやむ事はない
驟雨不終日。      土砂降りの雨も一日中と降っていない
孰爲此者?        だれがそのようにするのか
天地。           天と地
天地尚不能久、     天地の暴れは長くて継続しない
而況於人乎、      人間も同じでしょう
故従事於道者、     だから大道のとおりに事物は道と同じ
道者同於道、      大徳のとおりの事やると人間は徳と同じ
徳者同於徳、      大徳と道のとおりにしないと
失者同於失。      徳と道を失う
同於道者、       道と同じ人は
道亦楽得之、     道も喜んで一緒にいる
同於徳者 、      徳と同じ人は
徳亦楽得之、     喜んで一緒にいる
同於失者、       道と徳を失う人は
失亦楽得之。     道と徳もその人を失う
信不足焉、       誠実と信用がありない人は
有不信焉。       人間も自然とその人を信用しないだろう

解釈
この章で老子が話している道理は、道と徳がなければそのことは長く続け事はできない。
私たち人類としては希言の意味は、少ないの意味、人類としては語言は、文明に行くしるし、乱暴で使う事はいけない。昔から「災難な事は口から」「沈黙は金である」という言葉があります。だから老子は自分の言葉を大事にして話すのを少なくしてくださいと言いました。
少なくするの意味は決して話さないではなくて、もし人間が話は一切しない世界は静かになりますが、動くだけの物体になってしまいます。魂と意識があっても生きている意味は無くなります。それでは老子が語る「話を少なく」はどういう意味か?私たちはなぜ話を少なくしないとならない?伝える必要もありますし感情や思想も伝える手段です。
でもその言葉の中に本当の事を話したでしょうか?実際は完全な話じゃありません。
一つ有名な実験があります。実験者が一つの言葉を人に伝えて、その人がまた二人目に伝えます。そうして伝えた人が四人目の時になると話の内容に大きな相違が出てきます。
十人目になるまったく違う話になります。つまり、一つの言葉伝えるのは正確に出来ないということです。
私たちは話を使って感情を連絡できます?当然出来る。でも私たちの話しは間違いばかりです。話の中にあるその人の感情は失われてしまいます。そうすると逆に違う意味が出てくる場合もあります。また、話にも意味あります?当然あります。話は本質の言葉を使い、確かな内容の事なら話しても良いです。
また、暴風はずっとは続きません。道の規律に反することは継続の時間は短くなります。世の中の命も短いです。
たとえば、暴君や民衆の信用を失うような王朝・国家は存続の時間も短いです。
道は自然の規律に反して長く存在する事は許しません。勿論天と地の力でも暴君などは続けることなどは出来ません道は無声、無音、でも万物は道から創造した。私たちは道の載体である。みんな道の規律どおりに従います。
だからいらない言葉は少なくして、自分の災難と問題点での規律は一番低くすると、生命の最大の楽になる。道の決めたとおりに生きる。徳と一緒に生きようとする人は徳を受けます。道と徳は一緒にしたくない人は、大道と大徳はその人を忘れてしまう。

【第24章 企者不立】2006.06.22
原文 訳
企者不立 つま先で立っている人が落ち着いて立つという事は難しいだろう
跨者不行 飛んだり、走ったりしている人は、遠くまでは行けないだろう
自見者不明 自分だけ見ている人は、物事の本質が見えないだろう
自是者不彰 自慢だけをする人は、他人に褒められる事はないだろう
自伐者無功 自分自身だけを褒める人は、功労を表すことは無理だろう
自矜者不長 自分だけを尊敬している人は、長く続ける事は出来ない
其于道也 今言った全ての行動を道から見ると
曰餘食贅行 残り物やゴミみたいなもので
物或悪之 誰もが嫌いな事
故有道者不處 だから道のわかる人はこのような事はしない。

解釈
この章では初めから老子は深い道理を教えました。私たちは虚栄心、自尊の心を持たない方が良い。
なぜなら大道と大徳の根本と違いますから、このようなものを持っていると失敗だけの結果しか生みません。不幸と苦しみを生むだけで、いい結果は何一つもありません。
例えば、つま先だけで立つ事はできますが、安定はしません。もし安定して立ちたいのであれば地面にしっかりと両足をつけて立つと安定します。だから世の中で何かをする時には、あまり根のない事はせずに、大地に足を根付かせることが大事と思います。
人間は虚栄心を持ちます。他人から褒められると喜びますし、行動や顔色に表れます。もし批判をされると顔色が変わり、相手を批判しようとする。これは虚栄心が原因です。
虚栄心を追い出す事は中々出来ません。ただ出来ない原因は虚栄心というものを本質から理解していないだけです。ですから老子は私たちに虚栄心によっておきる結果・効果を説明しています。
いつでも自己表現をする人は、良いやり方ではないですし、自我を張っていると他人を認める事が中々出来ません。自分の事を褒める人は、自分の苦労は表せない。何かあるごとに自分だけ尊敬して、大きく見せようとする人は他人から尊敬されません。だから気をつけなくてはいけない、と説明しています。
このような虚栄心は、泥の上に家を建てるといつか沈むように、自分に跳ね返ってきます。 ガン細胞のようなもので一つその細胞が生まれると他の細胞に転移してしまい自分ではコントロールできなくなってしまいます。
考えてみると世の中にも沢山当てはまることがあります。
自分の虚栄心を満足させるために戦争を起こしそこから核兵器が生まれます。また虚栄心のために自然を壊し、生態系のバランスをも壊したりもします。虚栄心のために動物などを殺して、その動物の皮・毛などを使い商売する。大昔から続いてきた世の中のバランスは虚栄心によって崩されてしまいます。
ですから修行をする人はまず虚栄心は消すことは非常に大事です。もし虚栄心を消せないでいると最後にはいい結果は出られないと思います。


【第25章 道法自然】2006.6.29
原文 訳
有物混成、    ある一つの物は天然で出来たもの
先天地生。    天地の先に生まれて
寂兮寥兮、    静かで、広くて、無形
獨立而不改。   独立の存在で、永遠に変わらない
周行而不殆、   循環、運行、流れは止まらない
可以爲天下母。  それは天地の母親と見てもよい 
吾不知其名、   私はその名前は知らない
字之曰道。     だからそれを道と言う
強爲之名曰大、  無理でもそれと『大』と表現
大曰逝、      広くて無辺で止まらない
逝曰遠。    止まらない遥遠といわれます 
遠曰反。     遠くで遥遠は根本に返るといわれます
故道大、     だから道は大きい
天大、      天は大きい
地大、    地も大きい
王亦大。    人間も大きい
域中有四大、  宇宙にはこの四大がある
而人居其一焉。 人間はその真ん中にいる
人法地、     人間は地に真似て
地法天、     地は天に真似て
天法道、     天は道に真似て
道法自然。    道は自然に真似た

解釈
この章が言っている事は道教思想の中心と言われます。『人法地』『地法天』『天法道』『道法自然』の四つの考え方は、これは道教は社会や自然に対して冷静で客観的な視点で見るということです。老子は第一章の中でも話した。もしはっきり説明できるものは道ではなく、しかし老子は私たちに道とはどのようなものと理解し易くする為に、わかりやすく説明します。ですからこの章で老子は道についてもう一度説明しました。
一つ混沌。天地より声もなく形もなく、独立、永遠で変わりません。何の説明もなく。
老子はこの中に新しい概念を入れました。宇宙の大きな空間の中に四つの大きなエネルギーの実物。「道大(道は大きい)」「天大(天は大きい)」「地大(地は大きい)」「人大(人は大きい)」
老子は同じ並びにあるもので、私たちは別角度から認識をせねばならない。万物の母親、道は天地の母親。老子は一つ強調しました。天と地は道が生まれる事です。道より万物が誕生します。しかし道は如何なる物から生み出されるのでしょうか?道は無限の上のものですから、自然から生まれます。これは同朋自然。道は自然から生まれ大自然になります。道に関して老子はたくさん言っていますが基本的な事は、道は独立で本質は大きく不変なものです。
プラスは無限で大きいですが、マイナスの無限も大きいのです。これは全て道から生まれます。
人間のエネルギーは神や鬼よりも大きい。道の存在の中に、神や鬼などと言った存在は無いかも知れません。
よく万物全てを人間が管理しますから、人間は万物の霊、精霊と言われます。だからこのような事が言われているから自分に対して過度の自信や自慢に繋がるのではないでしょうか。制限無く動物の迫害や大自然に対してはやりすぎというまでに行います。自分自身を大自然よりも上の位においています。しかし実際、道は私たちの管理と約束です。つまり私たちのやり方は間違えています。
だから出来るだけ自分自身という意味です。本来の自然に従って、無為でいなければなりません。

【第27章 常善救人】2006.07.13

(原文)             (訳)
善行無轍迹       よく歩く人は足跡を残さない
善言無瑕謫       よく言葉を言う人は間違いが無い
善數不籌策       よく計算できる人は計算機を使う必要が無い
善閉無關鍵而不可開   うまく扉を閉める人は鍵を使わなくても、
               他人がその扉を開ける事はできない
善結無繩約而不可解   人を縄で他人にその縄を解く事は出来ない
是以聖人 常善救人   聖人はよく人間を使う
故無棄人        人材を無駄にしないように
常善救物        聖人は物質を利用する
故無棄物        物質を無駄にしないように
是謂襲明        これは賢明さの説明である
故善人者        だから、能力の有る人は
不善人之師       能力の無い人の先生である
不善人者        仕事が出来ない人は、
善人之資        出来る人を自分の見本とする
不貴其師        もし自分の師を尊敬しなければ、
不愛其資        その先生の経験を見本とする事はできない
雖智大迷        頭のいい人でも大きな間違いとなるだろう
是謂要妙        これは深く微妙な道理の要点である

解釈

 全ての行動を道に合致するよう行動したら、その行動は善になります。
 また私たちが道と一つになったら、行動の時に自分の心からやっている事に対して違和感というものが無くなります。それにより無理な結果を求めず、自分の能力と存在を人に誇示するよう必要も必要なくなるということです。
 この事は人生の全ての事において真の有能な人がする行動でもあるといえます。
 道に合致するよな行動をする人の例を挙げてみます。
 ある大手車会社が人材を募集していました。勿論大手の会社なので募集の中には多くの優秀な人がいましたが、まったく採用されませんでした。面接を待っていた一人のある大学生が汚れた紙くずが落ちているのを発見し、紙くずを拾ってゴミ箱へ捨てました。この何気ない小さな動作を偶然にも重役が見ていました。この大学生は別に重役に「自己アピールをしたい」と思って行動したわけではなく、ただ落ちていたものを捨てただけという自然の行動をしたまでの事です。ですがこの行動には一切の違和感が無く重役の心を掴み、この大学生は採用となりました。つまり目の前の小事を成せる人は大事も成せます。
のちにこの大学生はアメリカの有名な埠頭会社の社長となりました。老子は善行は後には残らないといっていますが、これは良い事が後世に残らないと言う事ではなく、それが違和感の残らず自然と受け入れられる行動という事です。この善行というものが分かったとしたら、すごく良いと思います。
 また、中国の言葉で「大変悪い事は口から出る」というのがあります。
だから言葉をより少なくしてみたら、自分に対しても相手に対しても良い効果が出来るのではないかと思います。
 これら二つのこと以外にも人生で出会う多くの事に対して「道」に合致するように対応をしていけば良い結果になると思います。
 それには道の人に勉強する、という事が大事です。しかし道と一緒に歩んでいる人も、道から離れて生きている人から学ぶという姿勢も大事です。学ぶ姿勢と言うのは一方的で会あってはなりません。自らに足りないところをお互いに学び合う姿勢こそが、自らの能力を最大限に上げる方法ではないでしょうか。

【第28章 常徳不離】2006.07.20

(原文)      (訳)
知其雄    その強いをわかるのに
守其雌    でも弱い立場にしてる
爲天下渓   これは天下のすべき道である
爲天下渓   天下のすべき道としては
常徳不離   永遠の徳は離れない
復歸於嬰兒  これは生まれたばかりの赤ちゃんの状態に似ている
知其白    事物の華やかな目立つ事を分かっても
守其黒    あえて目だたない状態を保つ
爲天下式   これは天下の標準である
爲天下式   天下の標準としては
常徳不○※  永遠の徳を失う事はない
復歸於無極  限界ない道に回帰するように
知其榮    栄華が素晴らしい事が分かっても
守其辱    でも低い立場、恥ずかしい立場にいる
爲天下谷   天下の谷のようにあるべきだ。
爲為天下谷  天下の谷としたら
常徳乃足   永遠の徳は充実するだろう
復歸於樸   これは純粋に回帰するように
樸散則爲器  機械物質になります
聖人用之   聖人はそれを利用して
則爲官長   指導者になる
故大制不割  だから理想の政治制度は無理して割ってはいけない。

老子は前の章の中で私達は自然に順応するべきであるという事を教えてくれました。
この章の中では私たちに後ろ下げて進む事が自分自身の安定のもとであるという事を教えてくれています。
これは自分の生活習慣・生活の中の行動基準が変わり、全て目的ある行動が目的の無い行動に変わったら、それで良い。
だから自分が低い立場、相手の嫌がる立場になると競争相手の警戒心を消します。実力を守る事も出来ます。
例えば、赤ちゃんが生まれたばかりは非常に柔らかくて非常に純情です。この純情は一切の飾り物がないものです。
天然の状態の最上の状態です。だからこのような状態は道に合致するものです。だからこそ誰も赤ちゃんに対して危害を加えるなどと思いもしません。
でも成長し大人になると、たくさんの経験を積んで色々な大変な目や楽しい事にも遭います。社会の中では会社に何十年間も勤めて、そうすると色々な思想を持つ心の状態になります。
だから外部への表現は知識と経験で分かるようにもなります。
でも自分本来の状態に戻り、赤ちゃんのように静かになると意識の中には少しの汚れた物はないですし、埃もありません。この本来の状態に戻ると従順で円満な状態で判断自体が意味を持たないものになります。
山・谷を流れる水のように永遠に止まらない。だから老子はここでの話は、謙遜で慎重に行動するべきであって、自己顕示をしなくてもいいということを言いました。
面白い例があります。イギリスのチャーチルという人は古い爆撃機と呼ばれていました。チャーチルは優れた才能はありますし自信もあります。ですが他人の意見にはまったく耳を貸しません。
ただ一人だけは例外がありました。チャーチルの助手のスティーブンスです。
ある日、スティーブンスがチャーチルから進言を求められましたが、スティーブンスはチャーチルが他人の意見は耳にも貸さないという事を知っていました。でも自分が一所懸命苦心して研究した案を述べました。スティーブンスのこの案は物凄い良い案で自信満々に進言しました。ですがチャーチルがこの話を聞き終わったら皮肉たっぷりのきつい一言を言いました。「これからあなたの無駄な話は聞きたいときに呼びます」
数日後あるお酒の席でスティーブンスは物凄く驚きました。チャーチルはスティーブンスの考えを自分の考え方として発表しました。このときスティーブンスは悟りました。
チャーチルはスティーブンスの考えが悪かったのではなく、進言の仕方、表し方がいけなかったのです。その後この進言は、チャーチルが閃いた天才の発想として結果を残しました。
このような事からも老子は低い姿勢などの態度で行う事によって一番良い結果になる、という事を言いたかったのです。

※ ○・・・弋に心

【第29章 去奢去泰】2006.07.27

(原文)        (翻訳)
將欲取天下而為之、 天下を取るのにそれを治理せずに
吾見其不得已。   何にも得ること無いと私が預知する
天下神器、     天下は神聖のもの
不可為也、     強制で治理出来ない
不可執也。     強制で支配も出来ない
為者敗之。     強制治理したら必ず失敗します
  執者失之。     強制支配したら失う
故物或行或隨。   なぜなら天下の万物は前に行くもいるし、
          後ろで付いていくのもあります
或歔或吹。     生活を緩めてやせっかちもある
或強或羸。     あるものは、強くて大きいですが、あるものは小さい弱い
或載或堕。     あるものは増加し、あるものは減少する
是以聖人去甚、去奢、去泰。
          ゆえに聖人は偏らず、贅沢と極端なものは棄てる
この章では老子は国家指示の考え方、仕方について話しました。
天下は国の人から組成しました。だから国家元首で決めるものではありません。
国家指示などは極端なものはいりません。老子の考えではこの世に存在するもの全てに色々な天性や違いがあります。
山の形にしても、木で覆われた山や石で覆われた山、長く連峰のような山、などが様々あります。水なども同じような事がいえます。
だから万物の霊として何十億の人間には様々な習慣、好き嫌い、身体的特徴、などがあります。
ある人は皆の前で歩くのが好きで、またある人は後ろで付いていくのが好き だから世の中にも色々の好き嫌いや特徴があり一人の意識より変わる事はできません。
人間を含めた万物はみな自然に存在していますし、人間は天性で発展しています。
そのような存在であるのになぜ無理に管理するのでしょうか。なぜ強引に習慣にしようとするのでしょうか。
自分の意識を無理に変えようとする言う事は、正しい意識であるのならばまだいいですが、間違いの意識でしたら大変な結果になるのではないでしょうか。
ですからリーダーの管理方法としては無為で治理する。また自分が自然に順ずる。だから自然に任せて成り行きを見守る。
ある人が見て、他人がやった事に対して一つの事は良くない結果もある。でもその人はそのままやります。あなたは説明してもまた聞かない。もし上司であるならば無理に相手にとめる事も出来ますが、 でもその人の心は理解はしていない。
だからその人は失敗の経験から色々分かります。
自然の規律より分析をして、そのような知恵はいい結果になります。失敗もしない。
世の中で、集団で悪知恵を使いなにか事を成し遂げたとします。これは一応成功になるかもしませんが、得るものより多くのものを失います。
友情、尊敬、信頼など人間として大事なものを失います。
  ある人は成功したらその人は他のものを失うのは大丈夫と思うでしょう。得る物もあるし失うもある。だから結果が大事なのでどんな方法を使ってもいい。でもこの考えは間違いです。
やりすぎなど極端な立場にあると、自らの命を失うかもしれません。人間としては道の規律で極端な生き方はしないで、自分は失敗をすることは無くなります。

【第30章 故善者果】2006.08.03

以道佐人主者   国王が道と協力して治理する人は、
不以兵強天下   兵の強さを天下に示して自分の強さを誇示する事はしない
其事好還      兵隊は自分の逆のほうをしやすい
師之所処      軍隊が行くところに
荊蕀生焉      農家の田地は荒れて余計な草が成長している
大軍之後      大型の戦争が終わると
必有凶年      必ず災難の年になります
善者果而已     よく軍隊、兵法を使って目的に達するのもいいですが
不敢以取強     武力で強さを表す事はしないで、
果而勿衿      結果が出ても自慢はせずに
果而勿伐      その結果が勝利でも自分は宣伝しない
果而勿驕      勝っても驕らない
果而不得已    勝って他の人の前に表すはしょうがない事
果而勿強      この結果は目的に達しても強さを表さない
物壮則老     実物は発展し大きくなると意になります
是謂不道      これは道の事に違反します
不道早已     道を違反すると早く自分は弱くなりなくなります
実際世の中のこと全てには限度があります。
この限度を超えると反対の結果を表します。
これは人間の力にも限界があります。 国王は国を治理する時に自然の方法で偏る事はしないで、 人民の安定、国の発展を保障する事が出来ます。
でも天下・国を治理は国王一人では出来ないですから、補佐をする人この人の考えが正し いかどうかは国王の判断に影響します。
だから道の規則にあわせて出来るかどうかは非常に大事な事です。 国王に協力して管理と同時に軍事にも関与しています。
もし軍事の事を強調しすぎ。国王は兵力によって天下を争う、 武力を強調する国の政策になります。
これは良くない結果、自分は勝っても負けても、皆は被害を受けます。 なぜならば戦争本来は最大の災難です。
ある人の話では、人類は一番の物、(お金や武器など)を使って一番悪い事をする。 これが戦争です。
でも一つの国は軍隊をないと他の国からの侵略も受けます。 自分の国の平和と安定を守る事はできない。
だから老子は、自分が軍隊を使う時戦争のためではなく、 自分の国を守ることや人民の平和と安定を保つためにはしょうがない事と言いました。
もしいったん戦争がおきて軍隊を使うときには道の原則に従って あまり軍隊の強さを使いすぎはいけません。
一つの目的を達成したらそれ以後は控えめにします。 なぜならやりすぎるとうらまれるからです。
そうすると今までの勝利は無くなり、最終的には失敗となります。
今回は戦争のことでしたが、これは何の事でも言えます。 実績と目的でたら自慢などは必要はありません。

【第32章 知止不殆】2006.08.17

道常無名。      大道は永遠で名前も形も無い
樸雖小、        素朴で小さくして
天下莫能臣也。   でも天下の人は道の上に立つ
候王若能守之、   もし守る道のとおりにすると
萬物將自賓。     万物は自然に
天地相合、      天と地の陰陽の気を融和させる
以降甘露、      すると雨が降る
民莫之令而自均。  誰かが命令しなくて自然で均等に雨は降る
始制有名、      人間は指示の為に色々な名前を作って
名亦既有、      名前というものがあるのならば>
夫亦將知止、    その限界を知る必要がある
知止所以不殆。   制度の限界を知る事が出来たのであれば失敗はだろう
譬道之在天下、   道の応用が天下で見られるよう
猶川谷之於江海。 小さい流れ自然と川が海に入るのも道の応用である


道というものは本当に存在しているのでしょうか?しかし私たちはその存在を知っています。それならば道はどのような形で存在しているのでしょうか?大きさなどあるのでしょうか?
そこで老子は、道は固定の形態はありませんが、どこにでも存在しています、と教えてくれました。
道を詳しく説明すると、液体の中に存在するものは液体になり、空中の中にあったらそれは気体となるようなものが道で、器や場所などは一切関係しません。
天と地に存在する万物、もちろんウィルスなど全ては道から生まれます。この宇宙の万物全てが生まれる「道」というものに対して大小の比較をする事ができるのでしょうか?当然に出来ません。
大と小は相対で存在するものであり、大が無ければ小もないからです。
道は形態を持っていませんので大きさもありません。このような性質のものに名前をつけることが出来ません。
道とは極めて素朴な状態で、母親のお腹にいる赤ちゃんのようなもので、形も名前も無く男女の区別すら無く外の世界を知らない純粋無垢のものです。
そのような素朴な状態にあると、個人で追求する財産、名誉・権力などはありません。もし人類、特に人の上に立つ立場の人が道の素朴さを理解・実行出来て、胎児のように分別心をなくすことが出来たらならば、
全ての事があなた自身を作用する事は出来なくなり、あなたの指示通りに動き、制限や管理を設ける必要なく、平等・平和な生活する事が出来ます。
しかし道は名前も無く形もありませんので理解・実行する事は難しい事です。
ですから私たちがその事を理解・実行するためには名前をつけて認識しなければなりません。それを「道」と名づけました。ですが名前があると言う事は概念があり、概念があると言う事は対立があると言う事です。
対立があると言う事は認識にも限界があります。道の認識のときに天地は道から生まれたという事は分かりますが、でも天の外に天はあるのでしょうか?実際は天と言うと宇宙です。
私たちが認識している宇宙は一部で、多くの認識出来ていない空間もあります。私たちとアインシュタインの認識の異なるように、認識が違うと言う事はレベルが異なってきます。
例えば、私たちが見ている時間は真っ直ぐですが、時間は曲がり、物のサイズも変わっています。アインシュタインの認識だと大地は動いていますが、車は止まっています。でも私たちの認識だと大地は止まっていますが、車は動いています。
私たちが認識している世界には限界があります。その限界に執着しすぎてはいけません。そうする事により間違いは少なくなります。制限したまま世界を認識する事をやめることにより、私たちの意識は道のように名前も無い形も無い世の中にどこでも存在するようになります。

【第33章 自知者明】2006.08.24

知人者智他    他人を分かるという事は知恵である
自知者明     自分を分かるはという事は賢明である
勝人者有力     他人に勝つということは威力によって勝つということである
自勝者強      自分を勝つということが本当の勝者である
知足者富     自らの満足を知ったらそれは豊かな人ということだ
強行者有志    根気よく続けて行動することは志気である
不失其所者久   本性を見失わない限り長く続ける事ができるであろう
死而不亡者壽   死んでからも世の中から忘れられない事が長寿である


他人の良いところを知りそれを使う事を知恵といいます。人の上に立つ人は多くの部下を使う事で、発展する事が出来ます。中国の歴史の中にそのような事はたくさんあります。
あなたがもし敵の実力を知る事ができたのであれば、あなたは決して負けなくなるでしょう。また敵を知れば自分を守る事も出来ます。
ただ他人を知るだけでは足りません。他人を知るという事だけだと頭が良いだけで、賢明であるという事は証明できません。
ではこの賢明を証明するためには、どうすればいいのでしょうか?それは自らを知るという事から証明が出来ます。
中国の兵法には「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。」という言葉があります。他人の事を知るというのは自分を守る事しか出来ませんが、自分を知ると他人に勝つ事が出来るという事です。
漢の高祖・劉邦は「己を知る」という最大の特徴がありました。劉邦は漢王朝を興した後部下に話しました。
「策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することではわしは張良に及ばない。民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることではわしは蕭何に及ばない。軍を率いて戦いに勝つことではわしは韓信に及ばない。わしはこの三人の英傑を見事に使いこなした。項羽は范増一人すら使いこなせかった。これがわしが天下を取った理由だ。」 高祖・劉邦は他人も知り、己を知っていたからこそ項羽に勝つことができ天下を取る事ができました。
今も昔も高祖・劉邦のように自分と他人の事を分かる人は非常に少ないのではないでしょうか。他人の事を分かるは本当に難しい事ですが、それ以上に自らの事を知るのはもっと難しい事です。なぜなら人間には虚栄心があります。
自分の欠点を知っていても認めたくありません。もし自分の事を本当に知りたい場合には、まず素直に評価を聞き入れる心と正確な評価が必要です。
今もし自分の事を分からなくても、それはそれでかまいません。ただ自分の事を分かりもしないのに、自分の事をバカではないと思い、他人より頭が良いと思い、自分の良い所だけを見て自らの欠点から目を背けてしまう事が問題なのです。このような愚者が人の上に立つ