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【人生の中での精神の作用】:2005年2月9日
経済も発達して物質的にも豊かな現代では、精神的なことはあまり話題にされませんでした。
でも実際に世の中で成功している人、経済面や会社や個人の私生活で幸せを感じている人達は
精神的に健全なことが多いでしょう。物質と経済は日常の中に対立ではなく助長の関係にあります。
一緒に仕事をしたこともあるひとりの経済学者は、その方面では既に成功していました。
でも私と仕事をするようになって精神的な面にもさらに関心を持つようになりました。
私たちの生活の中で人間関係や家庭の幸せやその人の考え方、
人間性、仕事の能力は周りからのイメージという形で表わされます。
外部の環境による反応、影響には精神が関わります。
精神面で充実していると人間は自分に勝つことができます。
いろいろなことに自分で負けてしまう人は、良くない環境だとか忙しくて不満とか
自分の中に不良のマイナスの気持ちが出ているでしょう。
何かあった時にどういうふうに判断していくか、乗り越えていくのか、
あるいは落ち込んで病気の状態になるのか、不良の気持ちになってしまうのかは精神と関係あります。
例えば、人間の知識と能力は機械みたいなもので、精神や潜在意識、
頭脳はパソコンのソフトにあたります。人間は常に精神と関係しています。
これは動物と一番違うところです。
外部の影響によりプラスかマイナスどちらに進むかで変わってきます。
私自身もそういう感覚がありますが、少林寺の精神の通りに充実した精神で頑張っていくと、
自分の目標に達することができるようになると思います。
【命を入れて集中】:2005年2月2日
少林寺は武術で有名ですが、お寺ですからやはり仏教や昔からの環境から生まれた精神も持っています。
そして、この精神は歴史に残る他のいろいろなものとも通じる面があるでしょう。
映画にキリストの受けた災難の出来事と生涯を描いたものがあります。
私はあまりキリスト教については知りません。
仏教にしても少林寺に入る時にはもともとそういう面が中心ではありませんでしたが、
でもひとつの共通の感覚としては、イエス本人は世の中に対して自分の説あるいは
教義の中に真理を伝えるために心も身体も全て捧げたということがあります。
これは自分の口でもそういうふうに言いましたし、実際に行動もそういうふうにしました。
どれほど大変な目に遭ってもこのことを裏切ることはしないという精神は本当に大事なことです。
イエスが死ぬ前に受けた肉体と精神のダメージは大変なものでしたが、
でもそれでも自分の信念はずっと変わりません。
ひとつの考え方がきちんとあったからです。
最後には自分の命をもって自分の説を証明しましたから、
肉体は他の人よりも早く無くなってしまいましたが、でも精神は永遠に存在することになりました。
そうしてキリスト教は世の中にどんどん広まって信じる人も増えていきました。
だから、やはりひとつの説でもひとつの技術でも伝えるということ、
習う時にも自分は心から本当にそういう気持ちにならないと、
将来にもうまくつながることはできないと思います。
例えばもし途中で、イエスに何か大変なことがあって、
続けることができなかったらその説はもう終わってしまいます。
これは何かをやるには心身全部入って全力でないと、理想の結果はもちろんのこと
普通以上の成果もあげられないということだと思います。
気功でも普段の仕事でもたぶん何でもそういうことでしょう。
よく集中して命も入るまでに取り組んでこそ良い結果が表れると思います。
これはもちろん口だけの場合や思い込みもだめです。
よく見極めて下さい。
【肉食でも粗食でも少林寺の精神を表わす】:2005年1月27日
よくお坊さんは粗食で肉を食べないと言われます。
肉を食べるということは必ず動物の命が失われるので、植物を食べることで
動物にやさしくするという、仏教の慈悲心の基本的な考えからきます。
このことは歴史の中でずっと流れてきました。
でも、仏教を習っている人は必ず皆が粗食で肉は食べないのでしょうか。
あるいは人間の健康には本当に粗食だけが良いのでしょうか。
少林寺では出家してお坊さんになると、当然に少林寺の五戒は完全に守らなければなりません。
でも皆さんの様に少林寺のものを習っているからといって、肉を食べてはいけないということはないです。少林寺の管長は、在家の人に対してあるいは少林寺のものを習っている人には、
まず心と精神の要求をしています。そして他の面は自分の都合で自由にできます。
他には、殺生のことに対しても、普通は少林寺武術を習ったら、
絶対に他人に損害させたり怪我をさせたりしません。
でももし万が一、泥棒や殺人犯などに遭ったりなど本当に仕方ない時には別の場合もあります。
形を守るということは大事ですが、でももっと大事な方は持っている心です。
この心ということは、動物や人間や世の中のことに対しての慈悲心があります。
この慈悲心は、例えば悪い毒を持っている虫も殺さないから、
これはちゃんと守っているなどとそういう意味ではないです。
この虫が子供や赤ちゃんに危険だったり伝染病の可能性があったりすれば殺すでしょう。
だから、食事の方も自分がまずこういう心を持っていて、他人に何かしてあげる
そういう気持ちがあったなら、逆に食事の方には実際こんなに形にこだわらないでしょう。
要は自分の行動です。自分のやっていること、あるいは自分の人生観は何のためにあるのか。
例えばある人はベジタリアンだとします。この基本的な考えは、
お坊さんもやっているしまたは自分の健康の為ということもあるでしょう。
これはもちろん悪くないです。
でも行動を見てみると、すごく極端で自分の都合だけを考えていて
その人には慈悲心ということは何も見えません。
だからただ粗食であるということと、仏教やお坊さんとは何も関係ないと思います。
きちんとした自分の行動と人生観と心と食事の形は、どういうふうにつながりますか。
これは健康面からみても、粗食でも肉食でも一般的にはたくさんの野菜を食べる方がいいと思います。
でも肉を完全に食べないからといって絶対健康ということはたぶん言えないと思います。
私の基本的な考えは、食べるということは何でも食べる。今はいろいろな健康食品がありますが、
そういうものだけで済ませるのは実際に健康にいいかどうかはまだわからないです。
やっぱり人間の栄養になるものはたくさんのものの中にあるでしょう。
そして好き嫌いはあまり多くない方がいいです。
だから、健康というひとつの面に少林寺の精神を合わせて考えるとしたら、
やはり総合的な判断をすることと、実際の環境で合わせて考えることは大事だと思います。
行動と内容の形を合わせることは非常に大事なことだと思います。
【自分に厳しく、他人にはやさしく】(2005年1月19日)
少林寺の管長には、11期生までの認定式に参加した人は会ったことがあります。
皆さんに会った時にはよくにこにこした顔をしているでしょう。
外部からお坊さんやお客さんが来た時にはよくにこにこしています。
でも実際は本当の少林寺の中の人に対しては非常に厳しいです。
特に自分の弟子あるいは少林寺の管理委員会のメンバーにもです。
たぶんこの厳しさは皆さんは想像がつかないと思います。
当然に私に対しても弟子として厳しい態度です。
仕事には満足してもらっていますがかなり厳しいです。
中国では昼寝の習慣がありますが、何か非常に大事なことがある以外は
誰も管長の昼寝の邪魔をすることはしません。それは少林寺の副管長でもそうです。
もし邪魔をしたらこれは大変なことです。
日本の皆さんにはあまり理解できないかもしれませんが少林寺の中では当然のことです。
仕事の要求に対しては当然にもっと厳しいです。弟子が仕事で大きなミスをすると縁を切るほどです。
今までに何人も仕事のミスで去っていきました。これは単に仕事をもう頼まないという話ではなく、
少林寺との関係そして弟子の関係として縁を切りました。
達磨大師ももっと厳しかったです。あまりに厳しすぎるので本当の意味を理解できなかった人からは
損害を受けました。こういうことは私は当然によく理解できます。
仏教の話の慈悲心ということは、世の中のすべて生物に対して表わすことが基本ですが、
このためには自分に厳しくすることが必要です。だからお坊さんは厳しい修行をします。
また、自分の弟子として選んだ人には厳しい要求をします。
そうしないといい見本にはならないでしょう。
弟子の他には、少林寺代表や少林寺関係の仕事あるいは
少林寺事業に関係する人に対しても、質のいい仕事をするために厳しくします。
だから、そこで働く人は世の中のもっと多くの人に対して慈悲心の精神を守り実行するために、
仕事をする以上は厳しい要求をします。これは社会に対しての責任を持つことですから。
こういう責任のことは、自分の行動や自分の周りの人、部下に対しても仕事を通して実現します。
だから厳しいということは、本当は世の中に対してやさしい、世の中に対しての愛の表現です。
こういう意味は結構多くの人はまだ理解できないと思います。
管長の厳しさもそういう意味ですし、実際私自身もそういうことです。
例えば、一般のお客さんや生徒に対しては私はこういう厳しさは表わしません。
でもやはり仕事の関連では当然に厳しくします。
または私の弟子になる人が出てきた時には、そういう人には当然に厳しい要求をします。
こういう人は皆さんの見本になる人でないといけませんから。
でも、もしそういう立場にいる人達がこの厳しさに耐えられなければ、
この仕事とは関係をなくして、ただ一般のお客さんの部分として、
一般の普通の健康の為に勉強する生徒として、教室の指導もそういうこともやめるなら、
そうすると当然に一般と同じ様にやさしい顔で対応できるでしょう。
少林寺の精神は、自分に厳しくしてこそ世の中にやさしくできて助けることができるということです。
だからこのことと混ぜて考えて、単に素朴なやさしさを要求したり、社会に対して
仕事の責任感を忘れるのはいけないことです。そういうことは気をつけてほしいと思います。
【環境と信念】2005年1月11日
少林寺は年末はマイナス10度以下の寒さでした。これは何十年振りかのことです。
普通ならそういう寒い天候の場合は、外に出ない方がいいと考えるでしょう。
でも少林寺では、すべての部屋に暖房があるわけではないので、
身体を鍛えることは自然のことになります。
練習する部屋にも暖房はありませんから、寒いところでも坐禅をして、
外ではもちろん武術の練習をします。
この時は厚着も手袋もしてはいけませんから、非常に厳しい状態です。
坐禅の時も、静かで空気も確かにきれいですが寒いです。でも厳しい状態にも対応します。
もちろんこの寒さはずっと続くわけではないですが。
でもやはり暑さや寒さなど外部の環境に耐えて、武術や禅のことは続けて最後までやっています。
中途半端は誰もいません。
環境に変化があっても自分の信念のことは、守って続けます。
これは1年や2年だけのことじゃなく、何十年何百年と続きそして千五百年の歴史になります。
そして今までに少林寺の禅と少林寺の武術、少林寺の精神は続いています。
だから、外部の環境がどんな風に変わったとしても、自分は根気強く困難を越えて継続してください。
いくら大変でも少林寺の基本的な精神を持つことです。
前にもこういう話はしましたが、でも今回は何となくそういう面のことが感じられたので
また話しました。
【禅の心−不動心】
禅武合一や禅の心についてこういう話は結構たくさんの内容がありますが、
今回はこの中の不動心について話します。
そろそろお正月になりますが、そういう時期に皆さんも意識的に自分の不動心を
よく練習するといいと思います。この不動心とは、人間の心は禅の心になると
何があっても最後まで心を動かさないということです。
動かさないという意味は、何か大きな事が起きても、例えば物質の利益とか
異性の関係のことやあるいは周りの環境がずい分大きく変わったりしても、
自分の心は対応して大喜びとかすごく悲しいとかすごく寂しいとかすごく怒るとか
人間の七情のことは起こらないことです。
こういうことが起こらないといつでも平常心の状態で対応します。
これは絶対に怒ったりしないとかそういう意味ではなくて、
普通の一般的感情の表現はあっても、大きな面で自分の心はずっと自分を向いている、
目標や集中しているものには平常でやるということです。
自分の命が危ない時など何かあっても自分は自分の心をコントロールし自分の心を支配します。
今はなんとなく世の中で結構多くの人は、自分の心を支配することができないでしょう。
自分の心には日常からよく左右されていますから、
忙しい時にいろいろのことに対応しても間に合うことができません。
そういうことは平常心ではありません。
だから、例えば自分の練習としては、外を見て怖いものでも自分はそんなに怖くない、
見ておかしいものは自分はおかしいと思わない、弱い人を見て自分は弱いと思ったり苛めることもしない、
綺麗な人を見ても自分は練習の時にちゃんと集中できるということがあります。
こういう内容について不動心を表わす詩もあります。
だからいつでも自分の心は乱れない様に、ちゃんと自分の信念も持つと、これは不動心というものです。
現代では、世の中は非常に高スピードで動いていますから、ストレスも多いでしょう。
このストレスを受けやすいというのは、やはりある意味その不動心は足りないでしょう。
だからこの不動心の養成は必要になります。
もちろん不動心の方は静功の練習の時にも具体的な方法がいろいろあります。
止観法門や六妙法門では雑念を抑えます。
だんだん雑念をなくして心静かで、平和な気持ちでだんだんと不動心になります。
不動心というのはたぶん人生観とも関係があります。まずいつでも自分のことを一番に優先に
考えるようなことをしなければ、不動心でいられると思います。
また、静功の練習と人生観ともうひとつは大閉観という方法があります。
これは、自分は静かな真っ暗な部屋にいて何日間も外に出ないでずっと坐禅の形をします。
もし同時に断食できればそれも一番いいでしょう。
坐禅の形が疲れたら椅子に座っても構いません。立っても站とう功でも構いません。
でも、要は外に出ないで他のものも見ないで、自分はずっとひとつの所を見るという
そういうことです。そうするとだんだん自分の心に心理的な変化を行ないます。
だんだん変化して最後は不動心になります。
この不動心になるとこれは本当に強い心になります。
【師として要求されること】
少林寺の精神の中に、弟子から師に対しての要求があります。
でも師から自分の弟子や生徒に対して教える立場としては、どういう要求をするでしょう。
これは、普通の社会の中でも同じ部分もありますが違うところもあります。
今日は主に違うところを話しましょう。
少林寺では、師として要求されることは、まず自分は持っているものはしっかりと覚え、
もっといろいろな少林寺のものを身に付けて応用ができて、教える者として恥ずかしくない
レベルを持つことです。次は、弟子や生徒に対しては慈悲や愛する心も持っています。
これは、ビジネス的な面だとか一緒にお酒を飲む仲間としてとかそういうものではありません。
師は弟子に少林寺のものを伝え、一緒に同じものをやっているという気持ちや、
師のあとに続くものに対しての気持ち、将来に向けての使命感があります。
こういうの愛の気持ちは母親の愛というより父親の愛の方です。
そういう高い意味の愛です。
この愛の上にもうひとつ特に日本で他と一番違うのは、
少林寺のものを覚える為に生徒や弟子に対してはちゃんと厳しい要求をします。
これはもちろん日本の環境に合わせることは別としてありますが、
本当の理想の少林寺は授業の時やそれ以外でも弟子には非常に厳しい態度で要求します。
あるいは師は師、弟子は弟子としての区別があり、
一緒にいつでも笑ったりというものではありません。
こういうことは本当の話はいけないことです。
少林寺ではそういう段階の差が厳しいです。
日本の武道を見てもこういう面があるでしょう。
師と弟子の立場は何でも一緒などそういうふうはいけないことです。
師から自分の生徒に教えることは精神面での厳しい要求の他に、
表面の形としても要求があります。実際にものを教えるということは厳しいです。
これはたぶん他のどこでもやさしいということはありません。
もし、ひとつひとつ動作を教える時に生徒や弟子の中にあまり頑張らない場合があれば、
罰として殴る場合も結構よくあります。
ひとつ前に進まなければ他のものは教えないし、あるいは帰ってもらうこともあります。
だから師と弟子には差がありますから、
そういうちゃんと厳しい要求で教えることが、少林寺の精神の師としての要求になります。
弟子や生徒も要求したことはちゃんと実行して色々なことがちゃんとできるようになると、
理想の関係です。厳しい要求は師と弟子の環境を作ります。
<2004年の少林寺の精神>
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