連載「少林寺の禅」
【平常無心】2008.05.11

仏法には工夫することがなく、ただ平常無心な状態である。排泄したければ排泄し、おなかがすいたら食べる・眠くなったら寝る・愚人に嘲笑されても、賢い人には理解されることである。 昔の人は、外に向け工夫する人が全て愚者であることを指摘した。


【地獄と天国】2008.05.04

  武士信重は、襌師白隠に本当に天国と地獄があるのがと教えを請った。
白隠は、信重に貴方は何者であるかと聞いた。
信重は、私は武士であると答えた。
白隠は、貴方が乞食のような顔していると言った。
信重は、とても怒って、剣を抜こうとしていた。
白隠は、信重の怒りを無視して、貴方の剣は私の頭を切れないほど鈍いと言った。
信重は、本当に剣を抜いた。
その時白隠は、今地獄の門を開いていると言った。
信重の心は震え、突然悟りを開くと剣を収め白隠におじきをして謝った。 今、天国の門を開いていると白隠が言った。
 この物語は人間の善悪は境界線がなく、一瞬の意念であることを我々に教えてくれた。


【遠慮したら余る】2008.04.21

  ある人がお坊さんに、「自分の家でご飯を振舞うと三人分では足りなく、千人分は余る。 これはどういう事ですか?」と聞いた。お坊さんは答える事が出来なかった。
その話を聞いた禅師は、「奪い取るなら足りなく、遠慮すると余る」っと答えた。
 この物語は禅の通が簡単で、いつでも思いやりを持ちながら譲る気持ちを持てば、物事がもっと上手く進むという事を我々に教えてくれた。


【空腹の時食べ、眠い時寝る】2008.04.17

 弁護士である源は、大珠禅師に修業時どんな工夫する必要があるかと聞いた。
大珠禅師は工夫する必要があり、これは空腹の時食べ、眠い時寝ることであると答えた。 弁護士は一般人もそうしているのかと禅師に聞いた。
大珠禅師は違うと答えた。 一般人は食べる時いろいろを考え、寝るとき自分の損得を計算するから、私とは違うと答えた。
 この物語は一番簡単なことをやり、健康によく、修業にも良いということを教えてくれた。


  【条件が熟せば自然に成功するのは禅である】2008.04.07

 人間の本質は、珠の様に透明でキラキラしている。
物欲は、珠にほこりが付いているかの様に光を遮っているが、ほこりは洗えるものである。
学者は、自分の間違えを怖がる事はない。怖い事は、間違えを直さないことである。
事業中の困難を恐れることは無く、恐れてる事は、自信を無くすことである。
 心身を錬磨する事は、製鋼を磨くように繰り返さなければならなく、成功を焦る人には、深い教養がない。
物事にあたる時、弓を引く時と同様に準備を怠り、勝手に弓を射たならば、倍の労力がかかり、しかも半分の成果しか上がらないことになる。
 逆境の時こそ、物事が、順風満帆に進まない事を知らなければない。
 多くの小さな川が合流すれば大川になり、瓜(ウリ)は熟せばヘタから落ち、修業は自然に順応すれば悟りの果を得られる。


【俗ではなく上品であるのは禅である】2008.04.04

 紳士は、聡明さを見せびらかさず、才能を表現せず、謙虚さを大事にすれば、自然と重大な使命を背負うようになる。
才能と身についた学問を合わせ持っている人は、謙虚でなければ、嫉妬されやすくなる。

人の精力は限られているので、つまらないことに集中すると大事なことを忘れ、欲をかけば専念できなくなる。
 台湾の著名な禅学の師匠、耕曇先生は、本当に禅学の修行ができた人は人相が変わり、落ち着きのある美しさは顔に出ていると言っていた。

 上品な人は、他人に慈愛で優しく、そして信頼されるので合理的な欲望が実現でき、努力で成功し、人生は順調で幸せになる。


【即心即佛】2008.03.23

 一人のお坊さんは、馬祖に

『どの程度になったら、佛といえるか?』と聞いた。

 馬祖は、『即心即佛』であると答えた。

 もう一人のお坊さんが、馬祖に同じ質問した。

 馬祖は、『非心非佛』と答えた。

 この物語では沢山の事には、基準がなく、
正しくまた、正しくもなく、
行なうことが、大事なことであるということをいっている。


【≪味留三分≫は禅である】2008.01.09

 人生は、殻倉中の米や海の波のように結局消失する。
富貴な一生は、死を迎える時に、人生を恋することになる。
貧困な人生は、死が訪れる時、苦労な日々が終わることで、圧迫と束縛から解放される。
 狭い道を歩く時、他人のために余地を残さなければならない。
羊腸の小径で二人が通る時、争うと深い谷に墜落する可能性がある。
こんな時、お互い譲りあって通れば安全になる。
 道は、一歩を残し、味は、三分を残し、
即ち世渡りの時、万事を慎重にしなければならない。
原則な事以外は、個人利益を求めず、譲る気持ちを持たなければならない。
 世渡りの時、一歩を譲ったら高明であり、今後の準備にもなる。
≪一歩を譲り、一分を寛容し≫
この行動と考えを実行すれば、人徳が高く気立てのいい人になる。

【君子は胸中がさっぱりしているこれは禅である】2007.12.20

 蘇軾はむしろ肉を食べない。また、竹が無いところには、住めないと言っていった。
昔、よく竹は、人間の美徳を比喩した。人間の道徳、教養及び思想は大事なものである。
平凡な人は一生平安が幸せだと思い、
長年苦労している人は、仕事が無いのは幸せだと思い、
心安らかである人は猜疑するのは最大な災害だと思う。
公明でさっぱりしている人は、他人が自分に不利な行為をするとは、疑う余地がない。
 遊びばかりで働かない人間の精神は、必ず落ち込んでいる。
大きい事業を起こしたい人だったら、困難な環境の中で鍛えなければならない。
そうしないと重任を負えない。

【憂慮と不安が無いのは禅である】2007.12.06

 貧・富とは体以外は物である。人は物事で決めるのでなく、精神の中で貧困と裕福を超えるべきである。
 大富豪は常に財産を他人から奪われるのを恐れ、貧困者は静かに暮らしている。
身分や地位の高い人は自分の官位を他人に奪われるのを心配しているので、官の生活は庶民ほど悠々自適ではない。
 自分中心に物事を考える人は、成功しても喜ばず、失敗しても恐れない。全て自分の精神力を主宰するならば、万物を利用し、物事を失敗しても失敗しなくても、心に余裕が出来る。
物に執着する人であれば、逆境時、怨恨が残り、順境時、地位に恋々とする。つまらない事柄で悩む人であれば、何事でも窮屈に落ちた気になり、意気地が無い。知識人達はこれを戒めなければならない。

【静座瞑想するのは禅である】2007.12.03

 人が足を踏み入れない領域に住むと心が安らかになるが、
賑やかで騒々しいところに住んでも、もし心が安定していれば、それが人類の静かな本性である。
人は衣・食・住が満ち足りている時の幸せが本来の幸せではなく、
困難に満ちた時に心が穏やかであれば、それが本当の幸せである。
 人は不安や動揺した時、本来の純粋な本性を失う。
もし私心や不純な考えが無ければ、静座瞑想して、全ての雑念はなくなり、
心は鳥のさえずり声の様な喜びを感じる。
 安らかな心さえ保っていれば、人生の無限の楽しみを味わえる。

【恩に感謝してそれに報いようとするのは禅である】2007.11.25

   恩愛と怨恨は、相対的なものであり、ある条件の下で相互転化するものである。怨恨は、善行により消滅するものであり、恩愛を他人に持たせるよりも、他人を賛美して、善行を積むことによって自然に怨念を忘れさせた方がいいと考えられる。1人前の男は、何でも良心に恥じるところがなく、俗世間の小人と悪人の怨念を計算に入れない人である。また、主要なところに力をいれながら、ある人あることの善し悪しに囚われないことである。
 時々、千金の授与は、一時的な喜びに変えることができない。しかし、一回の質素な食事か小さい助けでも、その人の恩に一生感謝して、それに報いようとさせることができるかもしれない。人の感情・心は、金銭で買えるものでなく、人を真に助けようとしたら、最も助けを必要としている時に、慈悲の心から助けてあげることである。

【誠実であるのは禅である】2007.08.09

 世界は千変万化であり、誰でも社会を適応し、人生を面しなければならない。狡猾な人に対する時、誠意を披瀝することであり、横暴な人だったら、温和な態度で、自己中心な人だったら、大義な節操で対応することである。真心をこめてやれば、金石といえども切り開くことができると言われている。人と付き合う時、誠実かつ温和な態度で対応すれば、天下の人は美徳で感動され、世界は平安になる。
 菩薩はよく悪事をやらなければ、悪果にはならないと言っていた。衆生は悪果になるのを恐れているが、自分の行為を点検しなく、知らないうちに悪果を起こしたら、後悔する。

【質素な食事は禅である】2007.07.19

 魚肉、珍味は美味しい食べものであるが、食べ過ぎると飽きてしまう。本当の美味しさは質素な食事で味わうことが出来る。才能が優れた人は偉人ではなく、本当の偉人は平凡な人にしか見えない。物事に尽くすのは美徳であるが、尽くしすぎると疲れてしまう。官職を重視しないことは高尚な節操であるが、やりすぎると社会貢献が出来なくなる。
 人間はむしろ後天的な才知よりも純朴な本性を保った方がいい。栄躍栄華な生活するよりも落ち着いた生活を過ごした方がいい。

【落ち着いている気持ちは禅である】2007.07.12

 落ち着いている気持ちがあれば、生命の磁場に入ることができる。不愉快なことがあったら、他人に言わずにすぐ忘れることである。人生の真の意味が分かったら、自分が正しいとは思わずに、これがただ一時的な悟りである事を知り、深く理解できるようになるまで常にこの気持ちを保っていなければならない。
 欲張りな人は、物質的には満足しているが、精神は空しく、満足できる人の生活は貧相だが、精神は充実している。
 人間の本性は、愛憎や善し悪しに影響されることはなく、一種の静態を保持することが出来る。
 賑やかな場所で静かなものを見ることができ、高山で無我の玄妙な道理を悟ることが出来たら、「動静合誼、出入無碍」の境界に達することが出来る。

【俗世間を見限るのは禅である】2007.07.06

 仏教は何事にでも自然に順応し、強制しない事を主張している。人間は現実に満足していたら、幸福になる。もし現実に満足していなかったら、幸せにならないし、自分と人を害することになる。
 人間は物事の本性を見ず、見回りの事に振り回されてはいけない。解脱せず欲張りではいけない。人生の道が広いか狭いかは、本人の本性に関係があり、もし現実を超越すると心は広くなることが出来る。仕事を混雑する時、冷静にならなければならない。死に面する時、何も恐れずにいたければ、普段、俗世間を見限ら無ければならない。

【時機を待つのは禅である】2007.06.29

 成功には失敗が必ずあり、これが分かったら、功を焦る必要が無い。生命には生があり死もある。これが分かったら、自分の養生の道に工夫を強いることをせず、求めないことである。
 世渡りの時、一時的な得失で決定せず、時機を待たなければならない。同じように、生死に関しては養生を追求さえすれば長寿になれると思わないことである。人の精神は、もし充実していなければ、欲張りになる可能性がある。それは養生の道に反することであり、死期を早めてしまう事になる。

【忠言耳に逆らうのは禅である】2007.06.21

 もし人が、耳に痛い忠告を聞き逃さず、楽しくないことに遭っても立ち向かうならば、修業ができ、徳の高い人になれる。
 逆に、耳に心地よい言葉だけを聞き、行動も順調に行くならば、不治の病と同じで、つける薬がない。
 誠ある言葉は、大抵耳に痛いものであり、人には受け入れ難い。思い通りにならないことは、人を不愉快にさせるが、それこそがまさに人を磨く機会である。我々はそれを恨まず、逆に大切にすべきである。
 剛直は「魚の骨」に例えられる。もし正直に忠告してくれる友人が得られたら、これが福である。彼の話は耳に痛くとも、自分のよい行いへの、きっかけとなりうる。

【名利を譲るのは禅である】2007.06.14

 人がもし完璧な名誉,節操を持っていたら、他人に嫉妬されやすくなるので、名誉と利益は、他者と分かち合うのがよい。同様に、全ての悪名を他者に着せてはならず、分担した方がよい。このような世渡りができたら、修行もでき、善の境地にも行ける。
 美名は他者から与えられるもので、自分の自由になる権利ではないと、知るべきである。 世の中に完璧な人間はなく、誰もが汚名を嫌い、誰にも欠点がある。しかし、自己反省して、過ちは他者と共に分担すべきである。このような気質を備えたら、修身修行の効果がいや増す。
 道教の世渡りの観念は「和光同塵」であり、それは、本節の「韜光養徳」と同じ意味である。

【仏の心は禅である】2007.06.07

 全ての家族に真の仏があり、仏法を悟りたかったら、必ずしもお寺で修行しなくてもいいと言われている。何ごとにも心をこめ、朗らかな面容を保ち、言動を温和にし、円満な家庭を作る努力を続けることは、座禅修行の功徳に勝る。
 一般人は、仏がお寺だけに存在しているように思われるかもしれないが、仏界では、仏の宿とは仏の心を備えた人である、としている。
 生活の中に道が秘められている。つまり、日常生活が修行の道場であり、家庭の雰囲気を明朗に保つ中に、自己の解脱を求められる。
 <易経>は「人心には、愉快な精神が一日も欠かせない」と述べている。
 もし心情が愉快であれば、言動も温和になる。全ての家族について言えることだが、仏の心を持つものが一人いれば、その家族は必ず楽土に到達できる。

【仁愛と正義は禅である】2007.05.30

 他人は巨万の財産を持つが、我々は仁愛の心を持つ。他人の身は高位にあるが、我々は道義を力行する。人格者だったら、世俗の名利に誘惑されない。
 人格者は志向を持っていれば、造物主に支配されず、先天制限の突破が出来、自分の新しい天地を作ることが出来る。
 孟子は仁義道徳で、楚王の栄躍栄華と対抗して、卑屈感がまったく無いと言われている。
 また、孟子は「持其志無暴其気」と言っていた。意味は浩然の気が理想であり、それも本節の中心である。

【融通がきくのは禅である】2007.05.24

 盛世で生活するときは、公正な行為を保たなければならず、乱世で生活するときは、人当たりのよい態度をとるのがいい。もし末世のときであれば、公正な行為と人あたりのよい態度、両方しなければならない。そうすれば、太平盛世で大道を行おうとするとき、阻むものがないからである。
 乱世で正道が通用しないとなったら、身を持するためには融通をきかせたほうがいい。動揺不安の時に、自分が自分を守ることをさえ知らなかったら、それは愚かなことである。
孔子は諸国を遍歴した時、その国に危険があると分かったら、避けて入らないようにした。綱紀紊乱する(国の統治が乱れる)前に、速やかに出ることである。
 善い気質の人は純朴で、人が間違いを犯しても寛大にしてあげ、悪い気質の人は厳格に矯正しようとするが、一般に人と付き合うとき、相手が疎かの心理にならないよう、寛厳適切にすることである。人や世間への処し方は、適切に応用するのが大事であり、過ぎたるはなお及ばざるが如し、にならないようにすることである。勿論、これは容易ではなく、所謂、『巧妙自在人心』は、個人のそれぞれの体得するものである。

【いい気立ては禅の如し】2007.05.17

 気立てのいい人だったら、聖賢な知識を学ぶことが出来る。そうでなければ、知識は偽善となり、自分の間違いを隠すため言い訳をする道具に過ぎなくなってしまう。これは武器を強盗に渡すこと、あるいは泥棒に食品を提供するのと同じであり、結果は自分が損するしかないことである。
 もともと徳を修行するために読書する。もし心陰が悪くなったら、知識は罪悪の幇助になり、他人と自分に害を与えることになる。また、ある人は読書で名利を得たいと、もし正当の方法で得られたら、非難すべきではない。但し、ある人は悪賢くなって、聖賢な知識を誤用する恐れがある。
 思いやりの心がない人は好まれないが、軽蔑しすぎると自暴自棄になって、もっと悪行為をするかもしれない。勿論、その理由で勝手気ままなことをさせてはいけない。そうでなければ、思いやりの無い行為を黙認することと同じになる。

【官は民を愛するのは禅である】2007.05.10

 聖賢の知識を学んでも、もしその精神に従うのではなく、ただ丸々暗記するだけであれば、人の代わりに文章を書いたのと同じように、自分にとっては進歩がない。官吏の任務は人民の福利を図ることであり、もしそうでなければ、その人は位についているだけで責任を果たしていないことになる。
 また、もし学問に専念しても身をもって努力実行しなければ、唯の経文を朗読するのと同じである。偉大な功績を作り上げる者は、もし功徳を広めなければ、身分と功徳は花のようにすぐに散る。
 「子民」の意味は民を自分の息子のように愛することである。もし民の心配を謀らずに、自分の職務を守りとせず、官吏の俸給をもらうだけでしたら、それは衣服などを盗む人に過ぎない。以上のことは本節の先入観「衣冠之盗」である。

【真正の道徳は禅である】2007.05.03

 人が道徳を持っていれば、衆人に尊敬され、出世する機会が出てくる。これで得られた身分と富貴は山林中の花のように根が深くて順調に成長することができる。もし功業で名声を得られた場合は、盆栽中の花のように一時的に満開であるが、移植した後で枯れて死ぬ可能性がある。
 また、権力で身分を得られた場合は、切られて花瓶に入れられた花と盆栽中に入れた花のように、寿命はもっと短いことである。表面から見ると、三者は同じ栄耀栄華であるが、土台が違っているので、結果も違って行く。従って、道徳で人々の支持を得られた栄譽は我々が追求する価値があるものと思われる。
 "力即正義"は法家の思想であり、事実上では権力が常に不正行為の道具になってしまっている。しかし、権力を弄って栄耀栄華を得られた人は、土台が不安定で、世人がそれに戸惑わないようにしてください。

【行善は禅である】2007.04.26

 もし君子は衣食を心配しないことになれば、人のためになる話をし、善行をしたほうがいい。そうしないと、世の中で百年生きても、無駄である。
>  人は物質に対して勿論欲望がある。しかし、人々は始まるとき、利欲を求めるため、喜んで苦労することが出来る。一旦有名になったら、怠慢になりやすくなる。
>  中国古代の本<士林広記>に「飽暖思淫欲、飢寒発善心」を書いてある。この文の意味は人類が裕福になったら、人となりの躾を教えないと、禽獣と違わなく堕落しやすくなる。だから、聖人が五倫をおしえてくれた。五倫は君臣・父子・夫婦・兄弟・友達の五つの倫理関係である。  本文では適当な物質を享受する事を批判しているのではなく、人が享楽し過ぎないように、また人生が短いものなので、時を移さず善行をするのは大事なことを忠告している。

【名利を追い求めないのは禅である】2007.04.12

 名誉と地位を得られた後の輝きは誰でも憧れる。しかし、一方では、羨望されるが、他方では、嫉妬もされる。だから、名誉と地位を得られた人はいつも周囲の評価に気をつけなければならない。
 また、官吏であり権力を握る人は尊敬されているが、身に重大な責任を背負っているので、権力者になった満足感が弱められていく。さらに、ある人は官界生涯が網と同じのようなものを比喩し、官職が無ければ、自由自在が出来るから、これが人生の本当の楽しみであると思っている。
 古代魯国に一人の聖者がいて、名利を追い求めなく、他の人からの進呈を一切断った。彼は逝去した時に、衣服がぼろぼろで体を覆うことすらできなくて、極めて困窮だった。しかし、彼が後悔しなく、楽しく正しく生きてきたと思っていた。また、死去の後に「康」の名前をもらって、後世の子孫に典範を残してくれた。「康」の意味は快楽の人である。
 ですから、名利を負い求めないのは禅である。
【禅は逆境におとなしく従うものである】2007.04.05

 天機は凡人の智慧で解けないものである。古来を見て、天が万物の活動を抑えたり、伸ばさせたり、英雄が世における浮き沈みも天意に支配されていた。
 しかし、道徳が有る人は、不合理の逆境に従い、順境の時でも、先見の明を持ちながら、危篤に陥ったときの準備をする。天の神様もこのような人には途方に暮れる。
 また、天命を知っている人だったら、絶対に危険な壁のところに立たない。もし壁が倒れてしまって、押し潰されて死亡したら、それが自分の考慮不足で、天命のせいにしないことである。
 君子は貧乏暮らしに満足し、逆境に陥る時でも、泰山として事を処することが出来、母屋で寿命を終えることが出来る。天の神様もこのような楽観的な人は、支配することが出来なく、これが所謂身を落ち着けるところができ、心のよりどころを得るという事である。

【平実無欺は禅である】2007.03.21

地位高い人は嫌いで、自分の生活は質素で淡白で喋る人がいますが、しかし実際自分がそのような生活のなったら悲しくて落ち込むという人がいます。
本当に質素や豊か、喜ぶ嫌いなどの分別心を消失させたら世の中に豊かと貧乏の事は気になりません。
逆にその生活を受け入れる人は批判と攻撃の対象となります。
だから普通は何かやっても自慢は必要ありません。純粋であり、平和の雰囲気は大事です。つまり世の中に他人に嫉妬の心を抱かせぬようにする事が大事です。
甘い言葉ばかり言うのは何か目的がある。心からより湧き出る感情の交流では正直な気持ちであり自分の足りない本当の人間の心に気付かせてくれます。
日本にもあると思いますが、中国では「良薬口に苦し」と言います。
これは言葉の通りで良い言葉でも耳にはあまり良い感じはしませんが、行動には良い言葉となります。
そして人間の品性を守る事は大事です。地位が高くても低くても同じ態度でいる事が大事であると思います。

【世の中を見て、よく解る事は禅である】:2007.03.16

仏教の基本的な考え方は、全てのことに対して自然のままで応じて、決して無理をしないと言う考えで、儒教の考えは、余計な事はせず自分の分を弁えた通りに行動するという考えです。 この二つの考え方は、ある意味、世の中において生活する秘訣であると思います。 人生は長いですから、社会にしても何にしても全ての構造を自分の思うとおりにできません。全てを思うとおりに要求すると悩みが出てきてしまいます。 だから現実の事を安定して色々な事をすると、自然に全ての事ができます。 仏教でも万事は縁と通じます。だからどのような環境の中で自ら鍛える事は大事です。これは非常に意味のある事と思います。

【淡然は禅である】:2007.03.01

 自分の心が深く厚い人は、自分にも他人にも深く慎重に対応します。
信念が淡白の人は自分の事を気をつけないで、他人が薄くても気にしないで外部のことも淡然の態度です。
 日常生活の欲望は深く濃厚はよくない。でも枯れていてももよくない。
ある物事に対して心は深くしすぎると自分が不幸になります。
欲望は、物欲でも情欲でも、人間には誘惑ありますが、これは触る事はいけないことで、もし 触ってしまうとこの欲から抜けない状態になります。
だから全てに対して自然な態度で縁によって動く事は大事です。

【成長と枯れるは禅である】:2007.02.22

 春になると草花は成長し、秋になると枯れてしまいます。だから成長と枯れる事の規律は大自然にのっとっています。
草花は自身ではなく万物の自然の変化より変化し、また外部の環境変化によって変化します。
ただ人間の変化は外部の変化以外にあります。外部変化の力を観察・研究し、万物を人間に利用すると言う事です。
人間が苦労と経験し、草花や鳥や魚とは比べる事もせずにいると純正の気を貰います。
自分の地位が高いところいるからといって、苛める、侮辱するなどしてしまうと自分の徳を失うことになります。
逆に他人の苛めや侮辱を受けても恨む事で対応するのではなく、自分の目標や意識・信念も強くすることによって最後は悪い事でも良い事になります。そして人間性はもっと上達します。
 宇宙万物の中に天や月、太陽などの色々ありますが、もし自分が宇宙に入る心となると、永遠に良い結果になるといえるでしょう。

【無名は禅である】:2007.02.15

 道にのっとって生活をし、落ち着いて生活していると他人と争うことはなくなります。これは禅であるといえます。
道は人類生存の原則であり、徳は修行し努力をする事によって有徳の人間になります。
普通の人は高い品徳守る事は大事ですが、道徳の人は名誉利益は薄く見え、その存在を重視しませんせん。
 無名とは静かという意味もあり、平和で薄い生活であっても、堂々と生活をしており、そして残念に思うことは一切ありません。
例え名誉利益を重視している人の生活は非常に豊かででも、死んでから行動は評価されません。そのような結論はすごく悲しいことと感じられます。
だからこそ生きているときに静かに、道のように生き、信念を守るっていれば、その人は有名でなくとも歴史からは評判になります。
 道は目に見えない、形も無く、声も聞こえずどこでも存在するので一時の寂しさなどは静かな心にすることによって我慢できます。
だから無名は禅である。


【素朴は禅である】2007.01.25

世の中の経験が少ないほど心の中の汚れも少なくなります。逆に世の中社会経験は増えてると、汚れた部分が多くなります。
そうすると一つの道徳がある人にいくら多くの経験があり、物事に対応する事が出来るとしても、社会の経験より自分自身を曲げて生活する根本の理想をなくしたら、それは損ではないでしょうか。
様々な事に対して臨時の対応は賢く、色々な知恵で計算は良くできるのはこれは素晴らしいのですが、素朴はもっと素晴らしいものです。


【従言逆耳は禅である】2007.01.11

耳に入る言葉で心は喜ばない言葉であると修身養成はでき、品徳をあげる事もできます。しかし毎回毎回、良い言葉ばかりだといい結果になる事は難しいでしょう。
その人にとって本当にいい言葉というのは、誰からも喜ばれません。多くの人は人間は不愉快になるでしょう。この従言逆耳は意識の訓練でもあるといえます。
どんな言葉でもあってももっと上昇する機会ということで、恨まずに大事にしたほうがいいと思います。
当然にもし誰からも辛い言葉がなければ楽で生活しているかもしれません。
例えば部下の人が上司に話をするときは辛いですが、直接言ったほうがいいと思います。その話に耳は喜ばないですが、心で品徳を集める事もできます。
だから、もし他人に何かを言うときには是非正直な言葉を言ったほうがいいと思います。


【無は禅である】2006.12.21

本当の無を悟りたいのであれば寺に入らなければならないと云う事はありません。
もし本当に無の心を持っていたら常時いい気持ちで、様々な行動は社会的に合致するでしょう。勿論身の回りが平和で争いごとも無く周りは楽しくなります。
ある意味、この心を持つという事は座禅などの方法より功徳は大きいものと言えます。
一般の人の無の概念はお寺の中だけに有ると考えていますが、しかし無の修業をしている人の概念は本当の無は無の心を持っている人と考えています。
私たち人間の毎日の生活の中に道理と筋があり、これらは日常で同情といわれます。その中で道の修業ができます。 これらの意味は毎日座禅だけをして人間と離れるのではなく、自分の行動とやり方が、周りの人が平和になりいい気持ちになるということです。
もし自分がそのような心で万事を行うと仏教で言うところの功徳になるでしょう。 誠実の心とは内面外面は同じで、真実の心です。いつでも良い気持ちと一緒で付き合う、心には慈愛を持っていますから自然に表れますし、当然に他人に良い作用を与えます。 もし他人に対していい気持ちを抱くと御互いに春のような感覚になります。だから心の中が美しいというだけでなくて、それらを行動に表す必要もあり、表すことが出来たのならば平和になりいい環境になるでしょう。 無の心を育てたら次は行動で実行し、その行動が出来たのであれば環境は楽土になると感じられます。


【正気は禅である】2006.12.14

他人に対して失礼な態度で振舞う事は本当の勇気を持っているとは言いません。なぜならば本来これらは抑える必要があるものだからです。しかし抑える事が出来たならば、道義に合う正気はあなたの中で育つでしょう。
また感情は欲望のねじれた心から生まれます。だからこの心を消したらあなた本来の心がでてきます。
自分は高くだけを見て他人を無視するなどは所詮は一時の正しい気の結果であり、本来世の中には正しい気、つまり正気があります。正気とは本当の勇気、天地の間にある気で、この気が人体に入ると生命力溢れ出てきます。
孟子は宇宙間で起きる現象の全ての活動は気によって起こり、それらの気が道義に合うと堂々正々の力になります。
正気は天地に充満していて、強く壊れないものです。そしてこの気の中に道義が存在しています。ただもし義理を欠くと存在の条件を失います。だから正気は一つの生命力であり、本当の勇気であるといえます。これを孟子は浩然の気と言いました。そしてその正気を育てる事が禅の入り口と言えるでしょう。



【抑える事は禅である】2006.12.07

欲望が一時満足をしたら、それに対しての興味は薄くなります。例えば、おいしい料理を食べたときに、その前に食べたおいしい料理の記憶は薄くなります。
だから何かをする前に欲望の事を反省し、よく悟り、理解して、心性を安定させることによって自分の行動は正しくなります。ここでいう心性とは本性のことです。
本性の通りで生活するとという事は老子の道とも言われます。
これは仏教でも道教でも儒教でも通じるところがあります。日常生活の中では多くの欲望の中に素朴を選択する事ができません。
食事でも物質的でも強い欲望は理性を失い、自分の判断により抑える事は中々無理です。仏教では「痴」は無明ともいわれます。この意味は自らの治理の混乱、判断を間違えた状態の事です。
自分が何かをやって後悔するということは事前に抑えて、自分の本性の通りに生活すると人生は安定し、行動で間違える事は少なくなります。
まだ欲望を抑えるという事は低いレベルですが、でも禅を始めるのには必要な事であって、このような事から始めないと最後は禅の状態にはなりません。
仏教、道教でも修行があります。修行とは一つは悟りに関してともう一つは抑えることに関してです。だから抑える事は修行でもあり禅でもあるのです。



【道は禅である】2006.11.23

利益は自分を潤す心では無くて、実際は損害の心になります。勿論世の中の利益の追求にはビジネスなどで追求する事もあるでしょうが、一から百まで徹頭徹尾の利益追求は決して褒められて事ではありません。
しかし現実には仕方が無い事もあります。ですから欲望と利益追求は適当であり、自らの心を損害しないようにするのが大事なのです。
もし自らの理性を超えコントロールが出来なくなるまで利益追求をしてしまうと、自分のみならず他人にも迷惑をかけてしまうでしょう。
世の中の筋、そして社会環境などを考えないで、自らの想像で行うと最後は正しい道を離れて危険な事になります。
お金でもなんでも表面を見てキレイなものには誘惑の効果があります。だからそれに対しては警戒心が必要となってきます。それは人間の本能の欲望ですが、道ではありません。
怖いのは自分は頭が良いと思い込み、能力があると思いこむ。そして自らの欲望に従って行動をしてしまうと、それは道を得る一番の邪魔となってしまいます。だから老子は自分の欲望を排除し、知恵を捨てる事を説いたのです。
論語の中には4つの執着を捨てる事が記してあります。やはり道のとおりに行動する事が大事という事ではないでしょうか。


【心を静かは禅である・2】2006.11.17

心の中に巣食う悪魔は私たちの不幸を持ってきて、生命を害します。
しかし、もしこの悪魔を抑えたければ自らの心の中にある欲望消して、自分の心の指示通りに行動すると自然と消えるでしょう。
仏教の教義によると4つの悪魔がいます。また8つの悪魔ともいいますし10とも言います。これは各国によって異なりますが、もし心の中に悪魔がいたら修行すれば心が静かになり、全ての悪魔は逃げていきます。
だから自分はまず心静かする。そうすると悪い事は機会が少なくなります。だからこのような心は非常に大事といえるのです。


【心が静かであることは禅である】2006.11.09

自分の心にいる悪魔が自分自身を不幸にして、時には生命を奪う事もあります。
しかしその悪魔に降伏してまずは心の中の欲望をじっくりと内観すると、心は本来の自分の指示を聞くようになり、悪魔は自然と消え去るでしょう。
仏教では、座禅で集中すると心は静かになり悪魔は逃げます。自分の心の静かになると外部からの邪気が入ることは不可能です。
唐の時代の詩人・杜荀鶴も「滅却心頭火亦涼」と言っています。また安土桃山時代の禅僧・快川紹喜は焼死する際に、辞世の句として「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言ったと伝わっています。
心の火を消して、何事にも捕らわれない境地に至ったのであれば、火あぶりにされても涼しく感じるとの意味で、心に何事も止めなければ、他のなんであろうともあなたに損害を与える事はできません。


【仁義は禅である】2006.10.26

いくら相手に財産が多くあったとしても、私たちは人間の心を持っています。相手の地位が高くても、私たちは道義より行動します。本当の修行者というのは決して名利に惑わされません。
私たちが自分の人生の目標を決めてあるのであれば、人間の先天的の支配を乗り越え、物質に支配される事はありません。そうすると自分の新しい世界を発見する事ができます。
例えば孟子ですが、彼は仁義道徳を説きました。仁義道徳を持っていると富貴、栄華を極めた王様と比べても恥ずかしくありませんし、天地に対して恥ずかしくない思いもしません。勿論他人からの侮辱も感じません。
やはり人間の精神の話だけではなくて、人格というものはお金で図るものではありません。
だからこそ孟子は浩然の気を養成する事を大事にしたのです。

【方便は禅である】2006.10.19

 良いところでの生活で自分の行為を律する事が出来る事は素晴らしい事ですが、もし混乱の時代にその態度でいずに合わせる所は合わせなくてはいけません。
太平で良い状態に道の良いに繋がる事はできますので、安心して道に身を任せて行動できますが、世の中にあまりよくない状態のときに道のとおりで行動はできません。
 やはりそうすると、、正道を実行する事は出来ないので、多少なりとも周りの環境に合わせる事が必要です。仏教の方便も必要となってきます。
やはり不安定の時代のときに自分を守る事を知らないと頭が良いとは言えません。当然に少林寺のものを伝える事も当然に難しいです。
 だから賢人の孔子でも、その国がいい状態が終わるとすぐに乱れる状態になると離国しました。隠れての知恵は必要で、これが本当の君子となります。
 善良の人と接する時には優しい態度と暖かい態度が必要で、悪い人に対しては厳しい態度でないといけません。
だから大悪、大善の人で無い限り、適当な態度は必要です。
 ある人が言うには元々は本性は純粋で善良であり、問題があったら反省する事もありますので、もう優しい態度で接すれば良いのですが、悪い人に対しては厳しくして直さなくてはいけません。
普通の人には優しい態度で、優しいと厳しいの中庸の態度で、相手に反感を買わないように、やりすぎはしないようにする事は大事な事です。

【心がきれいであるのは禅である】2006.10.12
 心がきれいの人は聖賢の人の本を読んでも、色々な技術を習っても、それを正しい方向へ使おうとします。もし心がきれいでないのならば、身につけた知識と技術は形骸化したものです。外見はきれいに着飾っていますが、中身がないのと同じで、逆に多くの理由をつけて自らの間違いを決して認めようとはしません。
勉強して知識を得ることや修行して色々な技を身につけることは、最終的には自分自身の徳の修行であると言えます。もし心が正しくなければ人類に社会に対して使ってもそれは意味がなくなってしまうでしょう。
 ある人は知識や技術を身につけて、名誉や利益を得たいと思っています。正しいやり方でそれらを追求するのであれば、それはそれでも良いと思います。ただ一番いけない事は、知識と技術を変に使うという事です。
他人から自分の間違いを指摘されないように、知識と技術を利用して自分の間違いを指摘されたら言いくるめて正当化しようとする事は間違った方向で知識と技術を使っているのではないでしょうか。
 このように使われる知識と技術は社会にとってもマイナスになります。例えば少林寺の技術に限らず全ての事を悪い方向に使うこともそうです。だから何の事を習得しようとしても、先に心の方を正しく持たなくてはいけません。

【自分が高い地位に立ても民衆を愛する事は禅である】2006.10.05

 もし昔の聖賢の本を読んで、硬い文章と言葉を覚えても、それが役に立つとも言えません。その精神と道理を理解して、実行する事が本質ではないでしょうか。
それは官職についている人が、口だけで民衆に良い事をしなければ何も意味はないということと同じです。
 研究も同じで、気功や精神世界などもに同様に言えると思いますが、学問だけでそれを実行をしないと、それはお坊さんが経文も読むだけのようなことで、経文を読むだけで、最終的な目的でもある禅を悟らないと成果が出る事はありません。だから何か勉強する時には、表面だけではなく中身・本質を理解すると同時に行動することが大事だと思います。
 ある意味この事は禅であると言えます。これは専門的なものなど何も関係せずに、何をやってもこの特徴を理解して実行できたのであれば、良い結果がでて宇宙と通じるかもしれません。
これが通神ということでもあります。

【本当の道徳は禅である】2006.09.21

 道徳のある人は皆の尊敬を受けます。同時に目立ち出世の機会も多いでしょう。高名富貴は名誉とお金は山の林、森林の中の華と木のようなものです。意味は強くて順調に成長するということです。
名誉は自分の功労、功業よりきたものですが、でも盆栽の花は一時は物凄く盛んですが、ずっと長い間や別のところに移し変えてしまったら枯れないは保障は出来ません。
 権利より高名になると、ある意味話は紙の切り絵の花のようなで人造に作ったものです。命は短い。表面をみて高名、お金持ち、でも根は違います。
先ほどの話の山の中の花と木と盆栽の花ときれいな花では全て根は違いますし、効果も違います。
 だから道に合う人間の心の中の、名誉欲は自然の物である。だから孔子の論語の中にもそのようなことを言っています。
物質の生活が豊かでなくとも、でも自分は淡白な楽しい事もあります。
 貧乏ということはいいことではないですが、道を精神を支えています。肉体のそのような辛いは忘れてしまいます。
でも別の方法でももらった、正しい方法ではない方法でもらった富貴は雲と煙のようなもので直ぐに消失してしまいます。だからある意味瓶の中の花です。
 力は正義であるこれは中国の法家の思想。権利はよく正しくない行動の効果です。よく頭を使って権術を研究し自分の腕で取った富貴の根は安定しません。


【不変の概念が無い事は禅である】2006.09.07

禅という事はある意味決めた形式は持っていません。
今回アメリカでの学会に行くときに禅師の、特に静功やる人の体験や表現を聞いて色々なタイプがありました。言葉に表現できない人もいますし、表現できた人もいました。
禅は少林寺で生まれ元々本来の思想の中に決まり事はあります。応用できるは末端の状態はそのままではない。これと水は同じで、水は柔らかいですが、強い力を発揮する事も出来ます。長い年月でかけて岩を削る事も出来ます。しかし水本来が持っている性質はまったく変わりありません。
だから世の中にある禅のいくら良いものでも、その環境に適応したことを考えないと禅については分からない状態と同じと思います。これはただ本質が分からず言葉が分かっているだけです。
そのものが持っている本質が分かったら形は何でもいいのではないでしょうか。当然に中国式でもアメリカ式でも、勿論日本式でもいい。もともと禅は文字で教える事はできません。
ですが禅の事を分からない人に対して言葉で説明をしないと、禅の存在も分かりませんし、悟りについても分かる事は難しいでしょう。
これは禅に限らずやはりどのような環境も活用できるように合わせ応用していく事は大事と思います。


【厳しく優しくの調和は禅である】 2006.08.31

 理論的な話をしますと、もし自らの希望で道を習いたいと思う方は、自らを戒心の気持ちで厳しく行動を管理するでしょう。ですが生活を厳しすぎるとそれは五行の考え方である秋の殺気だけとなってしまいます。
 やはり人間の生活ということですから、春に吹く風のような温かい気質も必要です。だから聖人は道の修業と同時に自分修業と周り人に教える修業を兼ねている君子でもあるのです。
修業には自分に厳しい要求をしますが、色々広い趣味も必要です。ここで言う広い趣味の意味は自分の心は広く、行動も広くしなければならないと言う意味です。つまり大きな事には厳しく、細かい事には厳しさを求めません。
 ですから厳しさだけでなく逆に柔らかさの気質も必要となってきます。陰陽五行説では、春は木、秋は金となります。春になると木は成長し新しい葉をつけます。しかし秋になると木などの植物は死ぬ事となります。でもまた春になると生命が誕生しまた成長します。このように春の優しさと秋の厳しさは必要です。

【名誉・利益を追求しない事は禅である】 2006.08.24

 名誉はいわば光であり、それはすべての人間が関わるものです。ただ光と違うところは、名誉というものは他人から羨ましがられ、そこから嫉妬になります。
だから名誉をもらう人は必ずいつでも他人の評価に気をつけないといけません。
 また権利を持っている人は他人から尊敬され、自分の希望と理想を実行する事は出来ます。だから両肩に掛かる重い負担があるがゆえに高い地位にいるという満足感は薄くなります。
逆に高い地位にいない人は両肩の負担は無く本当に楽しいでしょう。
 中国のある詩に中には「自分の地位が低くても、お金が無くても、自分の気持ちは安定している。これが本当の幸せの状態である」という意味を詠ったものもあります。
 春秋戦国時代の魯の国にある武官がいました。
この武官は他人からの贈り物は決して受け取らず、死ぬときには服も無くすごく貧乏な生活のままでした。このような彼の生きた方がどのような結果を人生に及ぼすかは当然に本人も理解していました。
 しかしいくら貧乏をしてもこの武官は「道」に従って生きていましたので、生きている間、心は安定していました。人より物質を欠き貧乏してもまったく苦になりませんでした。
死んでからこの人は健康の「康」の号をもらいました。その「康」の当時の意味は、快楽の人というような意味です。
その人が死んで千年経ってもその人と比べられるような人が世に出てきた事はありません。その人は孔子と同じような人生を歩み、心の満足を追求し、同時に死んでからも後世の人に影響を与えました。

【覚醒は禅である】 2006.08.03

 一人の感情の波がある時に、悲しい・嫉妬・怒るなどもしそのような感情を反省して自らの過ちを直す事は自分の本心を表します。
仏教では感情を一つの欲と考えます。ですから感情は欲望の海といわれます。
欲望の海と言われるのには、いつでも欲望の中、海の中に何も入れてもといっぱいになることはありません。
 永遠の悟りの状態でないと、満足の事や人間の欲望にはキリがありません。人間はこのことを理解しているつもりでいますが、実際は間違っています。
だからそのときに出来るだけ自分の本性に戻るとよいでしょう。
 もし自分の悩みから急に悟りの状態になったとき、この悩み・自らの過ちを直す時に自分の本性が出るでしょう。
人間ですから悩みや欲望はあります。しかしこれらの欲望に対して自分は修業と考えていると、そのうち無の心、菩提心・仏様の心を身につけることができ、最終的に自分の心をコントロールできるようになるでしょう。

【自己鍛錬は禅である】 2006.07.27

 貧しい生活などで自分が苦労するという事は、優秀な人物を育てるための天からの試練と思うと自分の心身は良い方向に向かうと思います。逆にその苦労から逃げてしまったら心身は現状のままか、良くない方向に向かってしまうと思います。
 孟子の「告子章句下」の十五章の中に似たような内容があります。

「天の将に大任を是の人に降ろさんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を苦せしめ、其の体皮を餓せしめ、其の行動を空乏せしめ、其の為さんとする所を沸乱せしむ。心を動かし性を忍ばせ其の能くせざる所を増益せしむ。所以なり。」

つまり、ある人が志を持ち立ち上がろうとした時に、天は苦労という苦労を経験させ、肉体、精神、骨までも極限まで苦しめる。その志が一切の不純な動機からではないか、また本物かどうかをためしているのである。
その苦労と試練に耐えられた者だけが、志を成し遂げることができる。
それゆえ、あらゆる困難というのは、」その人の足りないところを補うために天が敢えて与えているのだ。ということです。
 世の中に自分が生まれて、様々な苦労などの辛い経験は、大人(たいじん)になるための自己鍛錬です。
すべての行動に順調な事をなくして、苦境から頑張る意志を作り出す。
その苦境をもって自らの能力を鍛えたら大きな責任を担える人物となるでしょう。


【天地の気は禅である】 2006.07.20

 人間は宇宙の進化の一定のレベルのものであって、人間は天地の気から生まれています。
ですから各々の人間は小宇宙と言うことです。
 人間は自分に感情に流される事無く、好き嫌いなどの感情を天地の法則や一定の規律で判断する事が出来たなら心身協調はできます。
 天は万物を蔽い、地は万物を乗せたものです。これら天と地は陰陽二種類の気の調和によって発展をしています。つまり人類は天地の心と繋がります。
 大地に生きる万物が安楽な生活を送る事が出来るのであれば、これらは皆の幸せとなり、宇宙の間には平和な気が充満します。
 だから私たち生きるもの全ては天地の性質は通じるということにもなり、人類は天地の子供と考えられ、万物は私たちの友達ということになります。
 そのように考える事ができたのならば、一人の人間も一つの天地であり、一つの小さな宇宙でもあり、大きな宇宙の遺伝子と考える事も出来ます。
 ですから人間の生活目的においては宇宙と繋がる事が必要です。この事を分かり実行できるようになったのであれば禅の状態になると考えられます。


【親情は禅である】2006.07.13

 全世界、特にアジアでは親子の間の「慈と孝」や兄弟の間の「友情と尊敬」は親情を表します。家族内で、この情がすごく深いのは当然のことで感謝する事などはありません。
 例えば、愛し合った相手に何かをしたときに、自分は相手に対して恩を売ったとか見返りを求める事やこの親情が珍しい事、素晴らしい事で常に協調して表したりすれば、それは互いの関係をまったく知らない人間の関係となります。
 物を買う代わりに代金を払うなど、何かをしてその見返りを求める行為は商売になってしまいます。慈は一つの愛です。 東洋の方では年配から後輩への愛は「慈」からくるものです。
 先輩と後輩、上と下に対しては儒教の中の「孝」。でも実際は同じ「慈」はあります。孫が祖父祖母に対して色々な心配や世話をする子孫は「孝」以外にも慈はあります。子としては同じ「慈」はあります。
 中国の「孝」は「徳」の元である。という言葉もあります。だから「孝」は徳の中でも最高の徳といわれます。なぜならば「孝」があったら兄弟が仲が良い、あるいは子孫、後輩、年配のほうに尊敬の態度で、良い家庭、国になります。
 兄弟の間の「友」は手と繋ぎ一緒にやるという事です。弟は兄を尊敬し、何でもする。父母に「孝」ということは、兄弟の友情は第一歩です。昔の家庭における道徳の根本でもありました。
 現代の人は特に欧米の方ではこのような関係は薄いです。もちろん人間平等ですが、これは一つの倫理道徳ですので、やはり家庭の親情を持たないと本当の禅の状態になるのは難しいと思います。
 なぜならば倫理道徳の中に進まないと修業の環境は出来ない。師と弟子の間には「孝」父母に対しての尊敬、先輩と後輩の間で友情を護らなければ正しい事を学ぶ事も伝える事も出来ません。
 まだ習ったばかりなのに、自分は何でもわかるという態度だと本当の修業は出来ません。
 現代社会の若い人は、あまり学校へ行かないという事がありますが、勉強や心を落ち着けて良いものを身につける事は難しいと思います。なぜなら水は全て高いところ低いへいくように自らが高い位置にいては何も得るものはありません。もし水を受けるという事は低い姿勢にならないと受けられません。単純で簡単な道理ですが、実践する事は簡単ではなく難しい事です。
 一つは自分の受ける能力のこと、受ける態度と気持ちは自分の最後の結果には修業のレベルに影響があります。


【謙虚は禅である】2006.07.06

地位が高すぎると他人より反感は買いやすいです。その反感が最後は自分の命に危険を及ぼすこともあります。だからなんでも自慢をしたり、胸を張りすぎたりする行動はよくありません。自分ばかりが高いところにいると、他人からは反感を買い、色々な陰口を言われたりもします。
中国の歴史の中には、地位の高い大臣が家族・財産など全部を破壊され、人が死ぬという事が多くありました。
老子が書いた道徳経の第9章の中でも言っています。コップに水を入れすぎると、ちょっと手が触れただけで溢れないか心配になりますが、足りないぐらい入れておけば、溢れ出ると云う事はありません。刃物でも同じことが言えます。刀の切れ味が良いと云う事は、刃こぼれしやすいですし、切れ味が鈍くなりやすいです。だから自分が富貴だからといって自慢ばかりして、尊敬の念を忘れた人は良い結果は生みません。孔子の論語の中にも似ている言葉があります。皆人間の知恵と能力、経歴も違いますので、百人いれば百人のやり方があるように人に教える時も謙虚に人によって教え方を変えることによって、良い結果を生むと思います。

【許すは禅である】2006.06.29

孫子の兵法書の中に書いてありますが、もう負けて引き上げる軍隊に対しては追撃しないほうがいい。
もう相手が逃げる敵はずっと追いかけるような事はしません。
これは孫子の兵法書の中に書いてある有名な話です。
相手が全滅寸前で、逆に攻めても、「窮鼠猫を噛む」の諺どおりに反撃されてしまい手痛い損害を被る場合があります。
また中国にも「逃げない魚は鯨をも食べる」という諺があります。動物も人間と同じです。
だから余裕を持ち、相手の道を残すという事は基本的な禅の考え方です。

【功徳は禅である 2】2006.06.22

昔の中国の修行者は功徳を理解して実行する人の多くはあまり生活が豊かではありませんでした。でもその人は物質的には他人を助ける力はないですが、でも周りの人が迷い悩んでいる時に、一つの言葉で世の中の事を分かるようにするように出来ます。一つの言葉でも相手の苦しみを救うことが出来ますので、これは功徳の一つです。功徳は仏教の中の言葉で禅の根でもあります。実際功徳を積んだ人は、物質的には貧乏ですが、人生の深いところの知恵は人より持っていますので、大きな道理は理解しています。だから世の中を助けたり、迷っている人がいたりしたら、解決してあげる事ができます。 修行を積んだ人は経済的に助ける事はできませんが、その人の修行方法は多くの人に対して精神の柱になることが出来ます。他人の迷っている事に対しては明るい道を指して、相手の迷っているところを改革する事が出来ます。これは無料の功徳です。功徳は美しい一つの徳です。 また私は授業のときに皆さんによく話をします。一般の人は寄付ということを考えた方がいい。また正しい道を案内する事は経済的に功徳を積むこと以上の寄付と考えられます。少林寺の健康法、少林寺の精神と肉体を習い伝える事は最高の功徳を積むことであると思います。

【功徳は禅である】2006.06.15

功徳とは仏教の言葉です。仏教の話は善の根の事を言っています。修行をして禅の心となるならば、功徳は大事です。功徳がないという事は禅の途中です。
禅寺の坊さんの多くは禅の状態になりますが、もともと多くの財産などはもっていません。
功徳とは主に、仏教では他人を助けて全てをやってあげる、という意味です。もちろん自分に無理な事はしませんが出来ることをやってあげるという事です。
たとえば財産がある人はお寺を作るための寄付とかも功徳になります。もちろん災害のときにお金などの物質を寄付して困っている人を助けること功徳です。分け与える財産が無い人は他人の命の為に、健康になる手段を教える事や、悟りを開くための手助けなど非物質的な事を他人に施すことも功徳になります。
功徳がないのに禅のことを言うのは偽の禅と思います。いくら禅であろうとも大乗仏教ではないからです。少林寺の禅の根本は大乗仏教にあります。ですから功徳は大事です。


【自我観察は禅である】2006.06.08

深夜すごく静かな時、一時寝て目が覚めた時に少しだけ本心の自分自身を鏡で照らして、 そのときに名誉利益など多そうな所を鏡のようなものに映し出して見て、心静かな状態になり外部からの情報や知識など邪魔な物を一切取り除き本当の自分を内観すると、そのときに禅の言葉が段々わかると思います。本性は明瞭でわかるという人もいるでしょうが、普通は心が波みたいな状態だとわかるわけがないです。だから座禅のような修行の方法があります。深夜、特に眠くない状態で普通の雑念が浮かばないときの状態で自分自身を反省し内観すると、自分の本性と問題点はよくわかるかもしれません。


【良知と本性は禅である】2006.06.01

良知については、昔中国の有名な思想家が話したことがあります。自分自身が持っている良知は天地存在の根本であるということです。
世の中何のもの一番大事でしょうか?本来は自分の内側が大事なはずであるのに、外側に目がいってしまいます。様々な努力が内側ではなく、外側へ向けられる事は間違いではないかと思います。
例えば本当の幸せはどこから来るものなのでしょうか?自分自身に存在する良知から引き出すものだと思います。
逆にもし財産が持っている人がいても、その人自身の思想が貧乏で、虚栄を張るような事をする人は、良い事でも、羨ましい事でもありません。
ですから自分自身の良知は外部の財産より、もっともっと大事なものだと思います。


【勤勉素朴な節約は禅である】2006.05.25

勤勉素朴は、本来は真面目で道徳についての話。
でも世の中は間違いが結構あり、勤勉の意味で別の理解であります。元々、勤勉は、行動的で真面目にがんばるという事です。しかし今回の勤勉節約の意味は行動的の慎重、生活の節約ということです。
生活の節約は自分の消費の所をコントロールするという事で、ケチの意味じゃありません。ケチの意味は何もあげたくない。自分が払うべき費用も払わない、などという意味です。だから今回の場合、実際は心をコントロールする事を言っています。本来の心をコントロールして悪い意味での贅沢、つまり形ある贅沢を注意するという事です。自分の行動の管理・注意、贅沢の注意ということで、表現を見ると、ただ仕事や生活に対しての物質、生活物質や仕事態度の話ですが、禅の心は、まず日常の簡単な事の形から色々な修行の形になります。
自分の心は本来そんなにたくさんのものは必要ではない。物質的な話では、例えば、赤ちゃんの時はお腹がいっぱいになるだけで十分、他のものは必要ではありません。
人間は大人になると、世の中に出て社会的になります。そうすると自分の行動には、自らの行動や周りに対して結果と責任も出てくる。
フラフラとした行動ではなくて、注意しての行動は世の中に対しての自分の本来の心は人間の本来・本質通りの心の行動になると考えられます。もちろん今までの話しのたくさんの事は、みんな社会と人生に対して具体的な禅の状態の入り口です。まだ社会の常識のことが出来ないうちは禅の心は無理と思います。なぜならば人間が禅の状態になる為には一歩一歩が大事です。
ある人が社会的に非常に未熟なのに、急に禅の心になろうというのははっきり言って、自分で自分の心を騙しているだけです。禅の心には急に悟りを開くというのがありますが、必ず自分の人生観と人間性と繋がります。
禅の話には、はっきり言って言葉の禅が多いです。言葉は禅ですが、行動は禅には見えない。禅の心は社会的な行動の中にあります。誰でもちょっと本を読んで知識を得たら「自分は禅の心だな」って言えます。
しかし禅の心になりたいと云う事であるならば、最後は行動です。真の悟りの状態に至ると云う事は、必ず多くの修行をしなくてはならない。ですから具体的な事は、表面を見ると悟りの言葉とは全然違う。でもこれは一つ一つの各面・側面は表面とは違います。


【大きな悟りは禅である】2006.05.18

一時の興味で何かをやるが、少しやってすぐに辞める人は、下がるわけでもないが、進む事とも言えない。一時の感情で悟りの事に興味を持って、悟りの事はなんとなく外部の実物を影響或いは迷っている状態になりやすい。これは大きい悟りの状態ではない。一時の悟りは、根本的な悟りではない。
人間の情とか欲とか、元々揺れています。もし、それに従って揺れていると、永遠に続ける行動と悟りを守る事はできません。
仏教の修行は日常の修行の道も表します。一般の人の考えや人間の行動は意志で決まります。でも伝統文化の中にある考えでは、論理・道徳の中に人間の心が考えます。仏教の考えには一人一人ごとに六根の感覚があります。例えば、目で見る、鼻で嗅ぐ、耳で聞く、舌で味見る、体の感覚や意識の感覚など。六根から感覚により六性・六情が生まれます。この六常の相手に、六識があります。目耳鼻舌、身体、意識の色々な作用があります。もし自分の六情・六識から見た悟りは本当の悟りではなく、六根から悟るというのも、籠の中の鳥と同じで、外に飛んでいないようなものです。ですから修行とか練習とかは必要です。


【心静意浄は、禅である】2006.05.11

心の中にある物欲や変な考え方には必ず人間の本性が表れます。 自分の心が静かで、安定の状態で無いと、自分の本性を探すのは難しい。荒れた波の中に写った月を探すような事で、当然に無理です。もし自分の意識が綺麗で、心が静かならば心性も順調になります。心性は生まれた性を明瞭にしてほしい。鏡の上に埃がいっぱいあるのに、鏡が綺麗な状態にするのは無理です。 心の虚の状態。虚心の意味は心に先入観が無い。自分の心はもともと虚心です。 そういう先入観や自分なりの考え方が無ければ心は広くなれます。そうすると自分個人の生まれついた心性は自然にあらわれる。性は心、生まれ持った意識です。あるいは性は皆生まれてきた時の心理の作用。人間はそれに従って従順に生きています。 もし自分の心境が明瞭でなければ、波の中に写った月を探すのは難しい。 仏性は自分の心の中を表すものである。また儒教では性は天命と言われる。 中国の昔に有名な言葉があります。もし自分の体の修行・修身をするには、まずは心が正しくなければならない。心を正しくしたければ、まず自分の意識を誠実にする事。意識を誠実にすることで、自ら正しい判断を行えるようになる。 そうすると自分は段々心が静かになる。勿論こういう事は座禅とか練功の形で行う事も必要です。懸命にやると、徐々に形ある有から最後は無になって、自分の本来の心になります。 でも主に、まずは意識の綺麗さと心の静かさが、大事だと思います。


【慈悲の心は、禅である】2006.05.07

自分の心の奥の中の愛・慈愛の心は、人間と天地万物の共同存在の根本である。
もし、天地万物にいろいろなものに対しての自拝の心が無ければ、例えば、石とか、 木とか、万物の霊という人間は、人間といわれる、動物とか石とかそういうものと は、 違うと考えられます。
実際、世の中に歴史からの有名な人物、特に戦争で有名な人は、例えば、三国志とか 項羽と劉邦とか、すごく激しく戦う。
でも、こういうことは、禅の視点から見れば、虫同士の戦いと同じです。ナポレオンでもイラクの戦争でも、はっきり言って、動物と動物の戦いと同じです。 人間の場合は、もし、愛の心から思考・行動をするならば、そんなにたくさんの戦争を繰り返す、必要は、無いでしょう。そうすれば、人間の社会・生活は、平和で、人間を大切にしたら、そういう戦争など必要ではなくなります。歴史の有名な英雄は、素晴らしいとか、自伝が、残っていますけれども、 でももし、その英雄が、戦争に勝っていなかったら?負けていたら?つまり、戦争を した結果が、違っていたとしたら、今の世の中は、変わっていたでしょうか? おそらく、戦争でどちらが勝っても負けても、あまり、その後の社会・世の中は、変わっていないと思います。
これは、政治でも軍事でも同じことです。中国を例に考えてみても、毛沢東・国民党の戦いなど。戦争では、普通の人民が、一番被害を受けます。上のリーダーたちは、勝てば利益になるかもしれない。でも、どちらが勝っても、世の中全体が、変わるわけじゃない。 ですから、戦うということは、修行のレベルからいうと、すごく低い思考と行動です。
人間でも、動物でも、植物でも、もし、慈悲心があったら、これからの世の中は、理想的な状態に変化していくでしょう。 例えば、植物に関して、自然の環境に関して、今、科学から証明して、環境破壊の結果は、逆に人間に厳しく報復しています。だから、今は、人間は、自分たちの住む環境に対して、愛の心で環境問題に取り組んでいます。 もし、昔から人間は、環境に対して、愛の心で接していたら、 今のような環境問題は、起こらなかったでしょう。 だから、これからもまず、人間の心・慈悲心・愛の心、を原点として、 いつでも思考・行動すれば、たぶん、無駄な動き、歴史の悲劇・惨劇を繰り返すこと なく、永遠の平和な世界を取り戻すことが、出来るでしょう。 これまでの人間の歴史を振り返って、戦争や日常や環境に対する、愛の心の無さか ら、一体、何を生み出し、残しましたか? これらの戦争の経験は、何か良い結果を生み出したでしょうか? 何も良いことは、残せませんでした。 ただ、支配者が、土地を獲得したり、利益を得たりしただけだと思います。
これは、普段の日常生活でも同じことです。周囲の人間関係、生活環境などに対して、 常に愛の心・慈悲心を持って、思考行動することが、大切です。 それは、すなわち、いかなるときにも自分自身の心が、禅である。ということです。 禅の心は、一瞬一瞬どんなときでも、体や環境や宇宙と調和の状態にあります。 自分の心は、一瞬一瞬何を生み出しているのか? それは、社会に対して、環境、宇宙に対して、責任を持つということ。 そして、自分の心と体は、いつでも、環境や宇宙と繋がっていて、 相互に影響を及ぼしあっているということです。 自分自身の心の在り方を良く見つめなおすことが、大切です。
今、あなたの心は、愛の心・慈悲心の状態ですか?


【心体は、禅である】2006.04.27

大きな事業で成功したり。いろいろな分野の有名な人達などは、社会的に見て偉大な人物と評価されるでしょう。 でも、これは、単に外部の力を借りて、有名になったということです。どういうことかというと、例えば、成功者や有名人などから、 実績と学歴・学問を抜いたら、本来は何にも残らない。
実際、人間の場合にもっと大事なことは、本来の心に汚れや埃が、無いことです。 もし、こういう状態になると、人間性は生まれたままの綺麗な状態になります。 もし、私達は、このように本来の人間性に戻り、純粋な汚れの無い心を取り戻したなら、 自分のやっている事業が、たとえ成功しなくても、何もできないとしても、その人が、 本来の心を持っているならば、本当の人間だと言うことができます。
なぜ、必ず成功、必ず大きな会社、必ずお金持ち、世の中には、本当に人間として何が大切か?ということが、 わからない人が、結構多い。 世の中でどのくらいの実績があるか?どのくらい有名か?どのくらいの会社? どのくらい知識があるか?などの多い少ないという尺度で、一人の人間の価値を決めることが、多い。
確かに、社会や地域で、外部の要素として物質的に豊かであることの表れではありますが、 しかし、これらは、人間の本質という点に、焦点を当てた場合には、何の意味も無いことだと思います。
人間の本来の価値を決める要素としては、まず、その人は、完璧な美しい人格を持っているか? もうひとつは、その人の心の本来(本性・人間性)を、持っているかどうか? もし、その人の心の本来(本性・人間性)を持っているならば、その人は、素晴らしいと言えます。 例えば、悟りの状態とか。悟りは、ただ、悟りじゃなくて、人間の本来のものだけが、わかる。 だから、他の社会的な成功が、一切無いとしても、これは、人間の一番高い価値だと思います。
特に禅宗の場合は、不立文字明心見性でこの意味を現す、文字(言葉)からその人の本来の人間性を表すということがあります。
だから、人間の価値やこの人生とかを考えたとき、外部の面を考えがちですが、本来は、その人が、本来の心を持っているかどうか? その人の心・言葉・人間性により価値が決まる。といえるのです。
心は、体に影響を与え、体は、その行動により、周囲の人や環境、社会にも影響を与えていきます。 ですから、人間の本来の心に戻る、人間としての価値を高めるということは、自ずと、その本来の綺麗な、純粋な心が、 外部に現れ、更に、外部へも影響を及ぼし、社会に希望と明るさを与えていくことでもあるのです。 自らの心の在り方を見つめなおすことは、心を輝かせ、世の中を輝かせることに繋がるでしょう。 外部の現象にとらわれたり、環境を嘆いたり、社会に絶望する前に、一人一人が、自分の心の本性に戻ることが大事です。 幸せの鍵は、一人一人の手の中に、握られています。


【どんな環境でも生きて行けることは禅である】2006.04.20

人間は、生活の中で、清潔すぎてもいけない。 多少汚れるところがあっても気にしないのがいい。 特に人と交際の場合は、自分の好き嫌いの心は、 あまり、表わしすぎもいけない。 なんとなく、禅でも、悪でも、賢くても、賢くなくても なんでも自分の心は、受けられるということが、 大事です。
もし、清潔しすぎの場合は、逆に潔癖症になります。 ほんとの意味で、清潔とは、言えません。 汚れた他の事を、実際の環境と事情を見る必要があります。 こういうことは、たぶん、人生の中に時々出会うでしょう。 清潔でなければならない人は、綺麗が好きですけれども、 でも、逆に汚れを受ける広い心は、足りない。
もし、汚れることが、絶対に我慢できないという人は、 世の中で、成功者には、なれないでしょう。 人の好き嫌いを表しすぎるのが、いけない原因は、 世の中には、さまざまな人間がいるからです。 自分の好き嫌いを中心に物事を考えれば、 派閥ができ、そのうち、戦うことになるでしょう。 もし、派閥の戦いに負けたら、周りの人は、だんだんと その派閥から離れていくでしょう。 そして、最後は、一人ぼっちになるでしょう。
だから、もし、勝つ場合でも他の人とは、平和な付き合いは、 望めないでしょう。特に優秀な人、勝者、賢者、のいいところを 受けて、いろいろなことをやると、たぶん、自分自身も進歩するでしょう。 広い心を持ち、常に自分自身を向上させるという意識を 持つことは、非常に大事です。
実際、自然界でもそういうことがあります。 例えば、水の中に住む魚を考えてみれば、わかるでしょう。 水が、綺麗過ぎるところには、酸素も少ないので、魚は、住めません。 一番重要な原因は、水が綺麗過ぎると、魚の食べる海草やプランクトン、 など微生物が、ないからです。また、綺麗過ぎると、大きな魚などから身を守るために、 隠れる場所もないので、あまり、好ましい環境ではないのです。 水、生活の流れる川は、だいたいにごっている。 小さい生物は、隠れるところがある、また、たくさんの生物もいるので、 生きていくことができます。だから、魚は、住むことができる。
汚れること、他人の欠点や自分の考えと違うとか、そういう他人のことを 許さないと、自分は、必ずいろいろなところで縛られます。
もし、この世界が、綺麗過ぎたら、人間は、生活できない。生きていけなくなります。 そうすると、人類の未来もなくなるでしょう。


【人間の人情も禅である】 2006.04.13

他人の恩を受けた時、その恩が、深くても返さない人もいます。
逆に他人の少し傷ついた場合に、やり返したりする人もいます。
他人の噂などを聞くと、よく事実を確認せずに簡単に信じたりします。
でも他人のいいことについて聞くと、なんとなく疑う。
世の中には、こういうことがよくあります。

禅の修行は、まず、心から恩を返して、傷があってもやり返さない。
恩が、深ければ、感謝の気持ちも深くなります。
これは、当然のことです。


他人の噂を聞いても、聞こえないように。
つまり、まず、人間らしく次は、上の段階にだんだん上がる。

仏教の修行は、普通、感情でないといわれますが、
それは、個人の感情ではなくて、もっと大きな感情。
例えば、人間に対して、動物、植物、虫までの感情。
虫を殺さない、動物を殺さない、当然、人間に対しての
恨みもしない。
もっと広い心があったら、文句も言わない、不満も言わない、
こういう心は、禅の修行の最基本です。
今まで色々な角度から、あれも禅、これも禅、ということを
お話してきました。
もちろん、これらは、禅の最後の状態ではありませんが、
禅の入門のときに、必ずやらなければならないことです。
だから、禅のことは、まずここからスタートということです。


【他人と近づきやすいことは禅である】2006.04.05

山の頂点は、草も木も成長しません。低いところは、草も木も成長します。水の流れが急なところは、魚もかにもいませんが、水の流れが緩やかなところは、魚は集まります。自分を高い位置に置き、他人に対して傲慢な態度をもって接すると、寂しい人になってしま います。中国では自然に現す詩があります。一番、田園詩人は非常に早めのときに透析なところで現しました。いろいろな大自然のところで、動の考え方もあります。もし自分の心は静かで広い場合、多くのことを受け入れられるようになります。キツイ性格の人や辛 い人でも、受け入れられたら、禅の心を表します。武では、仏さまでも人間でも皆同じと考え、差別区別をしないことは大事なことです。


【努力することだけが禅ではない】2006.03.30

夕日が沈む時間帯になると、だんだんと大地はオレンジ色に染まり、とても美しいものです。万物の中では、1年間で葉が散る広葉樹があったり、みかんも実が生り、香り高く美しい景色を見せてくれるときがあります。大自然のそのような現象から得られるものは多くあります。
人間は、もう歳だ、もう時間もないと諦めてしまうことがあります。やりたいことを続けていくことは、年齢や時間に関係なく、楽しめ、輝くことができます。ただ目前にした悩みを考えて落ち込んでばかりいることはとても悲しいことです。
私は、10代に農村で働いていました。昼間はとても太陽が強く、真っ暗になってから帰るというのが中国農村部での日課でした。朝真っ暗なときから働き始めるので、朝日も夕日も毎日見ていました。夕日を浴びることはとても心あらわれ気持ちのよいものです。また、当時、日本語を勉強するとき、夕日の時間帯が一番記憶力が高まりました。発想も豊かになります。みなさんが同じかわかりませんが、人間はそのようなところで、世の中をもっと美しく感じられたら、生命の価値がわかるようになり、人生が豊かなものになると思います。


【苦い味の後は甘い味となる、これは禅である】2006.03.23

心の中の欲望、あるいは情欲を満足させ、楽しいことを探したり、努力して、それの最後の結果は苦しみの深いところに落ちます。中国では、苦いことが終わったあとに甘いものとなる、という言葉があります。人間の欲は永遠と満足することなく、終わりがありません。それは自分が苦しむ一番の原因になります。
それらの道を通達することを知っている人たちはいつでも自分の信念とは異なった場所でも乗り越えられ、いやなことでも乗り越えていきそれらを楽しいものにすることができます。彼らのような道理がわかる人は、逆境の中でも気にせず、その中で楽しみを感じ、実物の本質をよくみることができることで、大変なことを解決でき仕事が楽しくなるのです。
中国の偉い人等は、このような大きな道理と筋を理解し、実物の本質を知り、困難なことでも誠心誠意尽くすことを知っています。ひとつひとつ解決の糸口を見出し、良い結果に結び付けています。昔の道において悟る人は、たとえ貧乏であったとしても楽しいと感じていました。道徳というものはここにもあるのです。



【無心は禅である】2006.03.16

風は木の林で吹くと、音がでます。風が終われば音はなくなります。小鳥が湖のすぐ上を飛んでいるときに、小鳥の影が水面に映ります。しかし高いところを飛んでいたら、水面には映りません。人間の心は、木の林のように、もし何事かが起こったら、処理することが必要ですが、それが終わったら心を静かに戻すことが大切です。
生命が静かになることと、人間は、重ね合わせることができます。物事が終われば、人間は本来の心に戻ります。何も発生していないような状態がいいと思います。少林寺の禅の心は、何があっても動揺しないものです。心が動かない状態であれば、自然、外部のものを映し出すことができます。水面と同じで、静かな状態なら鏡のように映し出すことができ、底をのぞくこともできます。人間の心をこのように静かにすることは大切だと思われます。


【修養は禅である】2006.03.09

仏教の話しにある悪は欲からきます。個人の悪い要望において、良心と知識がなくなってしまったら、それらはいくらでもできるようになってしまいます。善と悪の判断や道徳的な約束もできなくなります。戦う意志に自分は向いてしまいます。動物の世界は、強者生存という原理があります。強さを競い、自分が欲しい物を手にする兆候があります。
もし、自分の私利的な要望だけになってしまうと、最終的には生気はなくなってしまいます。また、自分だけのための知恵も考えるようになり、開明な人でなく、ただのそれだけの人になってしまいます。人々が元々持っている優しい心もなくなり、残酷になります。元々純粋で清潔でも、私的な要望を優先するようになってしまったら、邪悪になってしまいます。人格も怖くなり、価値のない人間になってしまうのです。私的だけの要望は、これだけ多くの損害を人間に与えてしまいます。
修養によって、自分の心を浄化し、自分の思うところ、考えるところ、やっていることが個人的な要望だけのために、道徳を壊すわけではない、よい方向へと向かいます。古代の歴史上人物の道徳は、なぜ普通の人よりも尊敬され、世の中に残っているのかは、これが要因なのです。特に現代の物質発展開発は向上し、そのレベルは飛躍的に伸びています。それら物質の贅沢はいくら要求しても、最終的には満足できなくなります。犯罪とされるものも多発するようになり、それは私的な要望が原因であります。
もし私たちが古代からのそのようなことを理解し、自分自身の修養をしたのなら、きれいに浄化されよい方向へと向かうことでしょう。


【自分に厳しく、他人にやさしく。これは禅である】2006.3.3
中国の禅は仏教を正統に伝えるだけでなく、実際儒教と道教の影響があります。いつでも中庸するべきだと考えます。このような修行は他人に対してもっともっと私達の終身や気弱なところをやさしくすれば、災難から逃れることができます。昔の言葉にあります。自分に厳しく、他人にやさしく。自分自身の欠点は厳しく律して、軽く見てはいけません。しかし他人の小さな問題であるならば、私達はできるだけやさしく許す態度で接し、相手の自尊心を傷つけないことが大切です。
特に他人の秘密を知ってしまっても、周りにもらすことはいけません。他の良いところは褒め、悪いところは言わないことです。他人の秘密や隠していることを、あちことに言うことはよく思いません。お互いの関係がよくなくなります。あるいは、道徳としてもよくないです。昔よくないことが双方にあったとして、今関係がよくなかったとしても、できるだけ広い心を持って対応し、許さない、復讐する心をもつことはよくありません。復讐し始めたら、いつまでもそれは繰り返されます。できるだけ悪循環を繰り返さないよう、早く終わらせることが大切です。人間と人間の部屋や場所間の争い事は、非常に貴重なことです。他人の間違いは攻め、個人の秘密とするものは他言し、毎日毎日そのようなことを繰り返していたら、私達の心は小さくなります。他人との付き合いもよくならず、敵をつくります。
自分の行動を厳しく管理し、他人との間も争いなくやることがいいと思います。


【人間と付き合うのは適当に、それも禅である】2006.02.24

私たち人間はいろいろな付き合いがあります。普通はこのような考えは禅とは関係ないとさ れます。人間と対応するときに、軽すぎる対応はその人物から自分の心を邪魔され、心身の収容はできない。慎重しすぎも、外部の概観からはずされ、心の中の自由がなくなります。自分の新しい自由もなくなります。行動的に軽くしていることも、信用性を失います。これら二つの真ん中でいることが重要です。
中国では、人間は七情六欲がありとし、それら感情の情欲は人を快感に、満足にします。人間の本性の満足だけで探したら、人間は自然に心は迷い、よい示しがなくなってしまいます。私たちは情欲のことは適当とすることが大切です。一度癖になると止まらなくなります。
パチンコを例にあげると、朝早くから並び、ふとんまでも持っている人もいます。そうやっ
て癖になると、正常心、そして日常生活にも大きく影響していきます。物欲と情欲の奴隷になってしまいます。これは深い泥沼に入ってしまい、自分で抜け出すことが困難になります。休みの日に適度に調整として、欲を満たすことは、その後の仕事などによい影響を与えます。あまり遊びすぎることは、全てのことが散漫になり、誤ったものの考え方をしてしまい、場合によっては法律に背き犯罪を犯してしまうこともあります。
なので、自分で抑え、コントロールすることが大切です。世の中に多数ある悪い勢力は、あなたの弱みに付け込みます。もし正しい道から油断し、一度悪い方に流れてしまったら、戻るのは非常に大変になります。そうならないように、日ごろから踏み外さないよう頑張ってほしいと思います。


【楽に自分の運命をわかることは禅である】2006.02.15

人生はある人にとっては長く感じ、ある人にとっては短く感じます。また、天は大変広いですが、自分の考え方が狭くなると、天地も狭くなります。実際は大自然の景色、たとえば、春夏秋冬の中の風、花、雪、月。それらの美しさ、雰囲気は人間の心を広くします。もし、そのような宇宙、大自然のことがわからなければ、利益のために戦う、などばかりして、疲れすぎてしまいます。そのような人にとっては、宇宙と天地は大変雑になります。全体の宇宙は騒音に感じられてしまうのです。だからそのような状態のときに、世の中のことによって、もともとの人生の場合は、自分からコントロールし、人生短くあるいは長くなど、自分の心で感じます。もし雑念が多すぎると、そのようなために心と肉体は皆余裕のない状態のときには、人生が苦しく感じられます。もし、天地宇宙の広さを認識できれば、その中の生命の意味などがわかれば、自分の生活の広さはだんだんわかるようになります。大自然の中に四季があり、春、夏、秋、冬、みなそういう心があったら、寒くても暑くても、心地よく感じられます。世の中のことを利益だけで感じていると、大自然との交流はなく、そのようなことは悟りの状態とは遠のいてしまいます。世の中の全てのことでなにをやっていても、職業や地位、環境がよく整っていなくとも、自然界のそのような変化でも、景色でも、人生でも、美しい音楽として感じられると思います。


【真髄を悟るということ】2006.02.11
宇宙のすべて、宇宙のいろいろなことを現すことが禅である。
実際人々は世の中に出回っている文字で書かれた本だけを読みます。文字のない、生きている本は読めません。皆、世の中に三味線に線があれば伴奏ができます。でもこの線がない三味線は弾けません。
もし自分が心や世の中の宇宙などいろいろなことを悟ったら、もっと多くのことがわかるようになります。もし自分はその真髄をよく理解したら、心の中の奇妙な音はよくわかるようになります。
現代の世の中の人々は、形体の形に執着する傾向にあります。形に縛られてしまっており、中身と精神をすぐに変えることができなくなっています。もし本の中の文字や三味線の線など具体的なものに縛られていたら、三味線の音の良さや本当の本の面白さ、楽しさがわからなくなります。
実際は宇宙の天地の間の万物は当然に宇宙の真理があります。言葉で表現としてありますが、鳥の鳴き声や虫の泣き声の心から心までの秘訣です。また、花や草などいろいろな色でも宇宙の真理であります。人間がなぜ宇宙の真理の悟りをできないのかという理由は、名誉や利益などが悟ることを阻害するからです。だから世の中に字があるものは本で読み、自然、万物からの真のものは字もないので、真理は読めないのです。
実際もし、こう言うことがわかったら、自分が悟ることを邪魔するものは消して、よく修行しましょう。自分の心から、宇宙の中の本来の真理を感じられたらあなたは、音楽がわからなくても、宇宙の中の音楽や人生の本当の楽しさを理解することができるでしょう。


【心静かであること】2006.02.03
一人の心は純粋で静か。悟りの状態。もし世の中の豊かな物質とお金などの欲望が雲や風のようになるので、山や森にわざわざ行かなくてもよい。人間はそうでなくても、自分は環境が静かでなくても、よく座禅や修行や昔の漢詩を読んだりすることで、心静かであることの楽しみがわかるようになります。だから人は悟りがあってもなくても、自慢する必要もない。心も体も縛らないほうがよいでしょう。逆に他人が功名や利益などに対して一生懸命であっても、皮肉や批判もするべきでないのです。自分の心は静かであることを、世の中にわざわざ示す必要もありません。そうすることで、自分の心と体が自由自在になるのです。
よくあることですが、楽しむことを探したり、友人達と食事をすることがすきで、特に皆で飲み会、新年会や忘年会などを楽しみますが、いくらいい雰囲気であっても、そのような何か宴会が終わったら、深夜寒くなってなんとなく寂しいや悲しい心が出ているように感じるでしょう。昔の詩人は涙まで流しています。中国漢の漢武帝の詩には、豪華な席で飲んで楽しんだとしても、その後寂しいのだと語っています。自分は若いときにいろいろ贅沢をし、歳になったらそのような事はしなくなります。人間は永遠とそのようなことを残すことはできない。終わらない宴会はないし、旅行も終わったら楽しかったことを思い返したりと、いずれ楽しいことには終わりがあります。楽しいことをよく探そうとする人はその分、寂しい気持ちや悲しい気持ちになることが多くなるでしょう。一生懸命幸せを探す人は逆に不幸せだったりします。世の中そのような弁証法があります。このようなことがわかったら、一つの悟りとなるでしょう。
【心】2006.01.27
最近のニュースでも報道されている、ライブドアー事件は、全世界中をに賑わせています。 堀江元社長は今まで、話題になってきましたが、はっきり言って経済的才能はかなりあります。 アメリカ式の考えで、これは香港でも昔行われてきました。
しかし、もし堀江元社長が、もう少し東洋の思想とか、東洋の哲学を心の中に入れていたら、このような結果 にならなかったと思います。
世の中才能だけあって、総理大臣がどんなに応援しても、やっぱり人間の心はわからない。堀江元社長は、前に心はお金で買えると言ってましたが、一時的な成功でも、お金はなんでもできるなどという拝金主義なると、いろいろのことは壊れやすい、という長い歴史のでの法則は簡単には変えられないと思います。
正しいやり方としては、じぶんが有名でも、目立つ立場になっても、東洋の哲学や老子の考え方では あまり前に出ないで控えめにすることです。一番目立つときに少し控えめな態度でいる。あまり鋭く他人を攻めたりしない。経済的に十分になったら、政治の世界等になんでも関わりたくなる、なんでも欲しくなるでしょうが、老子の本を読んだり仏教の考えを頭に入れて行動したなら、自分の才能も発揮でき、自然に成功できるのではないかとおもいます。
【見ざる・聞かざる・言わざるということ】2006.01.19
日光の東照宮にある、3つの猿のことは、日本人の皆さんならほとんど の方が知っているでしょう。 この話は中国の人にも理解できる話です。 しかし、わたしの解釈は「目はあっても、見なくていいものは見ない、 耳はあっても、聞かなくてよいものはできるだけ聞かない、言わなくてよいものは 言わない」、そうすると世の中は平和になっていく、と言うことではないかと思います。 禅の話でも、人間の悩みは、五感から生まれると言われています。ですから、大悲観など の座禅も目を閉じて・耳をふさいで(聞こえても無視をして)・当然話すこともしません。
言葉を発しても真言のみです。
これができれば、道になります。 基本的には世の中で人間が多いときに、目に見えるものを、丸いものを四角にみたら間違いの表現をします。聞く時は、話すときは、どうでしょうか。
人間は様々です。同じものを見て話をしても、聞く人が感動し心地よくなる人もいれば、気分を悪くさせる人もいます。 少林寺のものを学ぶみなさんには、是非、人を心地よくさせる人になってもらいたいと思います。
そうすると、自分の心の中でも、周りでも静かになるでしょう。

【修行の心は、禅である】2006.01.12
人間は若いときには、いろいろな欲望が強いものです。
でも、もしそういう人でも大変な病気・医者も見放すような病気になったりると、欲望はすぐになくなります。 名誉・富などの欲望の為に、おおくの人は争います。しかし、自分が死んでしまうような事になったら、興味はなくなるります。いつでも、自分がいつかは病気なる事や、いずれは死んでしまう事ことを意識している と欲望は弱くなり、逆に修行の心強くなっていくものです。人間は大変な病気なると、その苦しみや軽くするために自分の欲望を抑えることができます。食欲は先天的に持っている生きていく上での必要な欲望で、全くなくなるいけませんが、他の欲は心に先天的にあるっても、抑える事ができます。
だから、名誉・富などの欲のために過剰に争う人は、いずれは死ぬことを深刻に考えてみてください。欲を追求しても、蝋を食べるように味気のないものになるでしょう。自分の命があるからこそ、名誉や富に価値があるものです。死んで肉体がなくなってしまったら、いくらお金があっても・有名であってもなんの意味もないのです。
人生は短い、あっという間に終わることを認識できたなら、そんなに欲望や利益は重要なくなるはずです。
限界のある生命のなかで無限界の禅と道を追求すると自分の心は自然と静かなるり、欲望や利益の心は自然になくなります。
【正常な心は禅である】2006.01.04
山と森の中は都市と違います。自然豊かなところは、静かで美しい場所です。しかしあまりそのような景色のところに執着したり、飾りすぎる飾地域になり、賑やかな都市と同じになってしまいます。
たとえば、もし書道や絵など非常に広野ですが、これに執着すると骨董品の商人になってしまいます。だから執着すると、そのような意味はなくなります。大事なことは、自分の本来の心は正常で、外部のものに対して執着しないことです。正常な心でいれば、利益や経済など大変な世界の中でも自身を浄化され、自分自身がわかります。これは仙人が仙郷にいるのと同じことであります。しかし、そのような場所に執着しすぎることも逆によくありません。どちらでも自分の心でそのようなものを決めるべきです。環境は、そのような心になりやすい、よい環境のほうがよいです。
たとえば書道や絵が好きになり、それらを集めたりすることに意義を持つようになったら、そのことにお金をかけ、他人に見せつけたりし、本来の意味はなくなります。景色を見ることに固執しすぎると、旅行になってしまい、これも本来の意味ではなくなります。
【本体は禅である】2005.12.30
みなさんは、鳥のきれいな声では好んで聞きますが、かえるの声などは、あまり好きではない人が多いでしょう。 きれいな色の花などは庭で栽培しますが、雑草などは取ってしまいます。 これは人間として普通のことです。
しかし、初対面の人に対しても表面上の気質や見た目で好き・嫌いを判断しがちです。
もし、人類が個人的な好き嫌いを排除出来たら、道の気持ち・天の意味がわかり、自然と万物の中に新しい発見をすることがでるでしょう。
どんな動物でも、きれなものがいいという自然の本性があります。どんな植物でも、自然にに自分の良いところを表面に出すに見えます。
しかし、本来草や花や動物には善・悪、良い・悪い等というのはないものです。天性はみんな良いものです。
善・悪、正しい・正しくないは人間がの気持ちで分けているものです。
もし、自分の中で分け隔てを作っているという事が意識できて、分け隔てをする気持ちがなくなったら、いろいろなものがきれいに見えるようになるでしょう。
本来は、実体はきれいとかきれいじゃないとか言う事は無いものです。 禅や道の概念はすべて虚と無の状態です。聞こえたり見えたりはしないものです。
本来のものは、形は無いものですから、外見からは判断できないものです。
【禅の感覚】2005.12.26

小さい部屋でも、三杯くらいのお酒でも禅の状態になることがあります。

自然の状態で心に悩みが無くなったらなら、自分の住んでる部屋が小さい部屋でも
心からリラックスできるでしょう。皇帝や、王様が住むような豪華な部屋で
なくてもいいはずです。
一般の人は、禅の深い意味はわからないものです。いくら話しをしてもわからないものです。
でも、山などに入り自然界の中で、月に向かい、花に向かい、静かな音楽を聞きながら、
お酒をのんだりすると、三杯くらでいい気持ちで楽しくなるでしょう。
日本の現代の人達がやる花見はにぎやか過ぎてちょっと違いますが。
月や花をみながらお酒をのんで、春や秋の微風などを感じられると、とても気持ちがいいと感じるでしょう。
それは、ある意味、老子の意識を超える、万物の本来の道を感じられる状態だと思います。
無念(雑念が無い)無想の根本の本来の形に入ることができる。また、無為の自然本体と一緒になることができる状態だと
おもいます。
宇宙の本体に、自然のきれいな状態の中に、人間は少しお酒が入って、よっぱらった状態になるときに
入り込むことができる。一般の人は、頭がすっきりしている時には、こういう状態良くは分からないものですが、
お酒を飲んでこのような状態になったという経験のあるひとはいるでしょう。
しかし、、道教でも仏教の禅でも、ほんとに修行をしてる人は、お酒を飲まなくても、
こういう言う状態に入ることはできます。その状態の説明は、このような時の状態に似ていると言えます。

心の中の話は、豪華贅沢がいいという事ではないです。
自然と融合できるような、心になった瞬間には、適当な量のお酒がなくても、
高級レストランでたくさんお金をつかわなくても楽しむことができるものです。
日本の花見は、昔はから、静かに月や花を楽しむことから始まったと思いますが、
今の一般の花見はにぎやかすぎて、ちょっと違うと思いますが。
大自然と一緒になるというよりは、人間のつくった雰囲気になりすぎていると思います。

禅の感覚とは・高レベルの入静の様な状態にいつ入るのか、どんな感じなのかは、
質素な部屋の中でも大自然に向かい合い自然界と融和する気持ちで、お酒など飲んだ
ときに得られる感じが、禅の感覚に似ているといえます。


【浄土楽地の禅である】2005.12.15

人間は、人生によく名誉と利益を求める心により、本来自由で美しい心を縛りつけ、そのために、その人の人生は、無限の苦海となります。
私たちの住む、地球上には、大自然の美があります。例えば、綺麗な青山、清い水の流れ、花の香りと、鳥の声・・・。
世の中は、そんなに汚いところではないし、海もそんなに苦いわけでもなく、大自然は、私たちに美しさを与えてくれます。
もし自分自身の心の中に、名誉や利益といったことを消すことが出来るならば、全体の宇宙は、浄土楽地になり、苦海ということも無くなります。
仏教の中で、苦海とは、永遠に終わらない苦しい意味として例えられています。
実際は、もし、自分の心の中の名誉や利益を消すならば、普通の日常生活も天道になります。
でも、名誉と利益は、非常に人間に間違った道に連れて行きやすい。そうすると、生きていることに対して自信喪失となります。
名誉・利益のことを忘れて、逆にこれらのことが、嫌いになると、たぶん、自分の心は、静かになります。
でも、ある人が、名誉・利益は、嫌いだと言う時に、本心では、自分は、名誉・利益が得られないために悩んでいて、その結果、これらの言葉を聞きたくないということもあります。
だから、こういう人は、いつでも、心の中に名誉と利益を忘れていないのです。
こういったことは、根本的に、名誉や利益に執着しないということが、大切です。つまり、あっても無くても、悩まない。どっちでもいい。
それらに重要な意味を持たせないということが、大事です。名誉や利益を目的とせず、つまり、自分が与えられること・得ることばかり考えて生きるのではなく、自分は、自分自身の心と行動から、周囲の人や社会に何を与えることが出来るかを目標とすると、当然に心の中のちっぽけな悩みは、無くなり、より大きな自分自身へと成長していくことが 出来るでしょう。
こうした、考えで人生に目標を持つことは、正しい道を歩くことだと思います。
こういうことは、各人の人生観と関係あります。人生観が、はっきりと立てられないと、名誉や利益といったことにとらわれて本来の人生の道からずれてしまうことになります。

【戦わず禅であること】2005.12.10

起こったことがなくなり、静かになること。それが禅である。練功中の入静状態は
、どんなことがあっても、戦わず、静かでいられます。中国の歴史からもそのようなことは伺え、農民の反乱などで、各歴史の朝代では、最終的にたくさんの人が亡くなっています。そのように戦うことは、誰が正しい、正しくない、誰が強い、弱いなど、そんなことはなんの意味もありません。戦争の結果はただたくさんの人が亡くだけなのですから。理論と概念で、宗教の聖戦などの名目をいくらつくっても、それは第三者の目でみれば、ただの人間を殺す行為でしかありません。

少林寺の武術は、世の中に他人の侵害をする人に対抗するための武術です。ただ戦うために武術があるのではありません。いくら武術の技術が高くとも、本来の心は相手を倒すために使うのではありません。中国の歴史の剣士は、自分の名剣でもすべて箱の中にいれ、一切使いませんでした。これもその人の本当の修行で得た心です。

人と人との間には、必ず自分と違う立場があり、お互い違ったやり方と考え方があります。そのときに対立の心があるならば、我慢の心がなく、それを相手は違和感を感じるでしょう。相手がもし兄弟や奥さん、あなたの子供であったなら、そのような文句は他人よりも少ないことでしょう。物事におけるややこしいことには事情があるのでしょうが、それをあなたがそのままの形で返すことは、心穏やかでない状態である表れであり、逆に日常生活の仕事や人間関係などにおいて、争う気持ちがなければ、どんな人でも心は静かになれるのです。



【随縁は禅である(六妙法門の随息)】2005.11.29

この意味は「縁で決めて思念のままに」ということである。世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな道がある。もしひとつの自分の欲、あるいは執着をすれば多くの欲望がうまれる。余計なことを考えず過ごせば心は安定し、静かな状態になり、それはどこに行っても変わりありません。中国のそのような言葉で、いつでも自分の現状に満足して、いつでも楽しいというものがある。随縁の意味は自分の思念に従って物事をするということ。「読」がある人とは、人生、自分の運命を良く知っており、余計な行動はしないという人のことです。たとえばある人は豊かでお金持ちであったとしても、自慢せず悪行もしない。ある人は貧乏な生活でも不安感を感じない。だからどういう立場で、どういう状態でも、自分は自然に心を安定させ、世の中に波、苦難があってもその中に落ち着き自分の信念を守る生き方をします。そしてそうすることで、自分の信念を守ることができます。


【正しいこと正しくないことの分別】2005.11.20

前回は禅になる前の話でした。今回は正しいことや間違い、正しくないことなどの分別をすること、それが禅の前の修業になるというテーマです。
ある一人の嘘つきと思われている人が、虎がきますよといっても誰も信じず笑いますが、3人の人が同時に、虎がきますよというとみな信じ、逃げ出します。本当でないことでも、3人と人が増えることで信用されます。
このような原理で多くの根も葉もないことが情報として流れています。日本でも中国でも、勤め先でもマスコミでも、特に芸能界でもそのような噂の原則があります。事実でなくても広まることがあるのです。噂を初めに話す人はそれが真実であるかはよくわかっておらず、聞く人は疑心をもちます。伝えられた2人目になると、はじめの人と話す内容は似ていますが、少し合理的でないところは疑い、その問題点を減らし、信憑性が増すようにします。3人目になるとあるところをもっと強調して、信憑性のないところはごまかすようになります。
私達が修業するにおいて、このような噂に興味をもつといい関係は保てないでしょう。禅の修業の場合、いい環境はただ誰か個人のためでなく、私達みんなのことからはじめることが大事だと思います。またみなさんがそのような噂を言うことは間違いであり、よくない行いだといえます。しかし、相手が良い事をいっている時は、その人の意見をうけることは大切です。つまり心と心の繋がりは非常に大事であるということです。自分のメンツや自尊心など、また団体、他人、少林寺のためにもそのような噂をたてることはためになりません。これらのことがわかったら、誰でも噂をたてなくなるでしょう。人が集まるときに、相手が言っていることが噂であり正しくないことであるかどうかなどの判断や分別は修業の上ですごく大切であります


【覚悟は禅である】2005.11.11

私たちの行動はいつでも自分の心の中の私欲は抑えて
人間の初めての心の状態は一番大事。
もし私たちの夢は自分だけの要望に向いて、もしそれが正しい道でなければ、早くて正しい信念に変える必要がある。自分だけの大きな要望だけでは、人間はすごくなんでも欲しいとなることで、邪悪になる可能性がでてくる。
なぜなら人間は間違いや犯罪を犯した場合とても罪は大きく後悔をしても何もならない。修行の入静などは大事ですが、私たちの行動の基準を見直すことが大切だと思います。
たとえば人生観でもいつでも自分の反省、覚悟、悟りをし、よくないところは正すべきです。
一番上は私欲なのでできるだけ周りと調和し、正しい方向にいくようにすることで、落ち込んだり、ダメになったりしないでしょう。正しい道に入ることで、危ないことは自分にはおこらず、幸せや幸福が得られる。幸せ・生活・危険・平安などの結果は、まず自分の考え方が正しい道に入るかを考える。世の中によくある善と悪は生と死と同じような間の関係である。慎重に真面目に対応することは大切だと思う。
私たちが瞑想をするとき、最近のことですごく正しくないことがあるかなど、反省していくことでどんどん自分の思うよい方向にいけるでしょう。言葉をみて簡単、逆に原始的な言葉、深い意味のない言葉、世の中にどのような人でもすばらしい人でもなんとなくこのような関係があると思う。自分の人生によいと思う。


【禅の心】2005.11.06

前回までは禅の基本的、理論的な話でしたが、今回からは具体的な話に入ります。
日常生活のいろいろな現象を、少林寺の禅の考え方であらわします。具体的に、あるものは少林寺のもの、あるものは少林寺のものでない、と分かってきます。禅の理論的にわかりにくいことはなんの意味もなく、悟り、悟っていない、などのことはわかりにくいことがあります。どういうものは、禅に近く、どういうものが、禅の悟りの応用かをお話ししたいと思います。

今日話すのは、どういう心が禅か、ということです。中国では侠義の心は禅であるとしています。この意味は、弱い人を助ける、一方で、強い権利を利用して悪戯をしようとする人に対しては、抵抗するということです。
友達あるいは個人的な交際においても、心の交際や心を使うことが大事になります。たとえば、なにか相手や自分に大変な事があれば、お互いに協力して支えあいます。本当の誠実の心で神性で対応し、そうすることで、困難な時にはともにその困難を乗り越え、あるいは良い結果や幸せも共に分かちあえます。そうすることが、人間と人間の付き合いであります。このようなことが友達関係であれば、真実の友達になります。そうでない場合、たとえば偶然に出会った人、あるいは商売の流れでの出会いや、仕事での人との接触においても普通の交際と同じように心の友達ではない(もちろん人生観が同じ人は別に)。
このような心の友達は、やくざの言葉でいう仁義とは違います。友達がやることの目的はきかなくても共に、悪戯をやるというのではなく、本当の心で付き合える人とは逆に、友達が正しくないことをしていれば、相手を説得し改めさせ、お互いに前を向いて進歩し、良い方向に向くべきです。同時にお互いにレベルを高くもつべきです。
また、もし自分が危険なときに、いくら相手の権利が強くあなたが弱くても、協力して助けてくれます。このような友達は、サイの心の友達であり、そのような感情は本当の感情です。
人間になるとまず良と善の心があり、純正で綺麗であり、もしこのように自分の意志が純良であれば、悪いことはせず、外部の悪戯にも融和しません。人間になるとそのような条件を失うこともないです。社会的にあるいは世の中にはいろいろな良いことやよくないことがあり、また社会的に上に行くと大変なこと、あるいは罠などもありますが、私たちが善と良の心をもっていれば、世の中の悪戯に影響を受けることはなく、そのようなものに抵抗することができます。いい雰囲気、あるいはいい環境、影響力をつくることができます。
いつでも正直な心で自身の修行をして、同時に自分の善の心を他人に影響させるべきです。そうすると、みながいい影響をうけ、いい世の中になります。高いレベルの悟りどうこう修練の前に、善良の心が大切です。善良の心で大人になれば、他の人の行動や自分の行動がわかるようになり、その心は大切です。なんのことがその心を育てると、悪いことをすることや、いじめることや、他人の文句をいうなどということはせず、自分はやることはちゃんとやるということが、一番大事だと思います。そういうふうになれば、他人に悪いことはできず、自分のいうことは正しいこととして主張できます。他人のいうことの一般的にはその人の上司や先生以外、特に相手が友達でない場合は、そのようなことは話さなくて良いです。しかし、法律違反やルール違反による責任があれば、言ってよく、また自分自身は、一番正しいことを最後までやればよいのです。もし相手のことでなにかあれば(言うべき事)禅の話からします。このように善良のことは非常に大事です。

【動作・形にこだわらず、目的に集中!】2005.11.02

指導員Uのところで四大気功についてはお教えしました。四大気功にはいろいろ事情があり、ある教室の四大気功とこちらの教室とは少し異なっています。中国国家は〜に対して四大気功をつくりましたが、実際のところを私は中国の気功管理センターに聞きました。ビデオや本など、各地域と本人の前後の時代が違うことがあり、動作の違う意味は、たとえば去年の11月の上海の気功と北京の気功とは違います。本人のビデオや本についても異なります。問題は、4年間習っている人は、気功の真髄とはなにか、あるいはこのカタチが多少違うということはそんなに大騒ぎすることではないことを理解するべきです。中国気功管理センターでも、動作が違うことは不思議ではないとしています。真髄のことがわかればよいのです。このようなことをセンターに聞かなくても私はそう答えたでしょう。ある期生は気功師の認定をもらいましたが、ある動作とある動作とはどう違うか、気功は本質的になにが一番大事かを理解すべきです。あるいは禅という具体的な話はなんとなく聞いたことがあると思いますが、まだ入門に入ったところであると感じられます。特に少林寺の禅は不動心、心の静かさであり、それを初心者が得るにはまずいろいろな動作をしますが、私の教室ではできるだけ正確に伝えます。そこでこちらの教室と別の教室が違うということは全く不思議なことではありません。どちらでも動作はカタチであって、目的ではありません。カギはドアを開けるものであって、どんなカタチでもよいということと同じことです。ただ、気功を練習する際、動作はなんのためにあり、どういう効果があるのかはわかるとよいでしょう。本質は同じです。たとえば心の静かを求めるために、こちらの教室では動功もあり静功もあります。いろいろな考え方やいろいろな行動は、最終的には心の静かが目標です。動作が大騒ぎであると、禅としても気功としても心としても、もっと修行が必要となり、指導者となった場合にはこのようなことがわかっていなければ、生徒にもいいものを教えられません。なので、みなさんそういう面でしっかりと身に付けてください。

【不動心・高レベルの入静】2005.10.24

禅の中によくある話は、心の中にある静か、不動心。意味は心を常に静かにできるということ。少林寺の延達禅師の話は、禅の心とは、あるいは心静かとは、湖のように静かな水面のような状態。ある人は、心が静か、しかし普通の人は、海の状態である。湖の状態は、私達が練習しているときの入静の状態、あるいは日常生活の中での心が静かである。このようなことは練習の入静技術としては、わたしたちの練功のときどういう状態か。結果的に日常生活の中に表す心が静かな状態であること。これは、ただ実際感情がないわけではなく、たとえば大変なことがあっても落ち着いて自分の信念をもち続ける事ができるか。あるいは環境の変化にあわせて対応できるかなど、仕事でなしに本来の信念をもってやっていく。当然その中に柔軟性をもって環境の中で自分のあう形に左右していくことは静かじゃないことじゃない。感情的に生きているのは、人間のことであるが、問題となる重要なことは、この感情が原因で病気になるかどうかである。もし自分の健康に支障をきたすまでやって、仕事ができない状態にまでなることが、日常生活の中に影響を与えるとなったら、静かな状態にはなれない。もし日常感情を抑えて自己コントロールでき、悪性の方向に行かない、そのような状態は当然に禅の状態。禅の心はおもに、いろいろなことがあるときにでも常に、自分の心を静かにできるかどうかにある。
たとえば特に命の危ない危険な状況にあっても落ち着いていられるか。
まずそういう面で特にその中に自分の人生観の中で、入静の高レベルになると、よく自分のことがわかりよく悟れるということです。
悟りはある意味、入静の高レベルの状態あるいは禅の高レベルの状態。
このような状態のときに現実の表情は、そういうことで表します。

【なぜ悟り、なぜ禅にならなければならいのか?】2005.10.06

少林寺の禅は1つは私たちはもし禅の心、あるいは入静の状態になると人間の心は湖のように静かな水、それは外部の山、川、空すべてを写すことができる。そうすることによって世の中のことを写すことができる。しかし私たち一般人の心は、海のように波があり、台風のように荒れている。そのような心は自然本来のものを映すことができず、世の中のことも映すことができない。
なので心が静かになるには座禅や修行が必要です。自分の自然のままで静かにできないが、座禅をすれば一生修行になる。
レベルはいろいろな段階がある。そのレベルが高くなると悟りといわれる。大きい悟りと小さい悟りがあるが、例えばこの連載をみて以前わからなかったことがだんだんわかるようになる、このようなことは小さな悟り。ある中国の有名な禅師は、百何回の小さな悟りと4、5回の大きな悟りがあったという。
人間は数々の練習の中に多くの悟りがでてくる。小さな悟りは大きな悟りになる。
本当の悟りに至ると天地人合一となり、何もやらなくてもよくなる。あるがままの自然の状態となる。

【なぜ、少林寺は、大乗仏教ですか?】2005.09.28

今回、13期生の認定式で少林寺を訪れた時にお坊さんから禅の話を聞きました。
その中から、ひとつの話題をお話します。
皆さん禅について、いろいろ質問した中で、
「なぜ、中国、少林寺は、大乗仏教ですか?」という質問がありました。
インドの小乗仏教の修行は、個人的に山の森の中でするとか、穴の中で修練するとか。

逆に中国の大乗仏教の修行は、みんな一緒にやるということですから、大乗仏教は、中国で人気になりました。
さて、お坊さんの質問に対する答えは、
小乗仏教での個人的な修行方法で、確かに多くの人は、悟りを得るかもしれません。
でも、それは、ただ個人的に円満に成るということです。
大乗仏教は、自分だけでなくもっとたくさんの人と一緒に練習、一緒に感得するということ。
その練習のときに、なかなか一人では、乗り越えられない大変なこと、辛い事がありますから、
一緒にやると、多くの人が、一緒に悟りを得やすい。また、一人の人の経験をたくさんの人と分かち合うことで一人で修行するよりも、早く悟りを得ることが、あるかもしれません。
仏教は、主に心の悟りや、或いは、多くの人の苦しみを解消、解決することが、目的です。
仏陀もはじめたときに、多くの人を苦しみから救うには、どうしたらいいか?と悩んでいました。
だから、大乗仏教は、社会に対して、小乗仏教よりも意味があります。
小乗仏教は、ただ個人の悟りでしょう。
教義としても、大乗仏教は、社会的要素が強く出ています。例えば、舎(多くの人、社会に対して徳を積むこと)とか、慈悲心とか、これらの徳や修行の中に自分だけではなく他人に対しての自分のあり方ということが、重要視されています。

ですから、中国では、大乗仏教のほうが、人気で全国ではやっています。
はやっているということは、社会的にも関係しています。
ひとつのものが、社会的に存在するかどうかは、ただ、自分だけじゃなくて、自分と環境の間は、環境が受けられるかどうか?
自分がいいと思っているだけで、環境が、周りがいいと思わなければ、社会では存在できないでしょう。
例えば、オウムは、社会的に存在できないでしょう。オウムは、自分は、自分にいいと思っています。でも、社会は、どう思っているか?
受け入れられないと思っているでしょう。
こういうことは、修行でも、練習でも、気功でも、同じことが言えると思います。
もし、個人的に山の中で行うのなら、どうであっても問題は無いでしょう。でも、社会生活の中で、修行や練習や気功を行っていくのであれば、それは、社会が、多くの人が、受け入れられるかどうか?ということが、重要です。

もし、自分だけが、いいと思ってやっていると、必ず、社会とぶつかっている。
ですから、自分のいる環境と抵抗を起こすとか、問題を起こすとか、トラブルになるとか、そういう面で、大乗仏教の考え方のほうが、いい。
後ろのほうは、私の解釈ですから。


【OSHOの話 後編】2005.09.16

(前回のOSHOの話の続きです。)
第3は、禅の状態に入る最後の段階になると、自分は、自然のまま、そのままの状態でいます。
何か禅に入る特別な方法は、いらなくなります。
この話は、相手を見て話す必要があります。
充分に悟りを得た人に対しては、有効ですが、まだ、修行の途中の人には、このままの話では、きちんとした理解は、難しいでしょう。
まだ、悟りを得ない間は、ちゃんとした方法を使わなければなりません。
これは、有為と無為。有為の意味は、わざわざ意識して行動するという意味です。
無為は、わざわざじゃない。そのまま。

この話は、指導員養成コースTの静功授業でもしています。
六妙法門と止観法門の中間の方法は、全部、無為法です。その前は、全部、有為法。
有為法は、静功と瞑想の方法を使って、最後、瞑想の状態、理想の状態に入る。
無為法は、何にも自分は、方法を使わずに自分の心の本来のまま、自然のまま、最後は、入静の状態に入ります。武術も武道も同じことがあります。
初めは、有為の方は、いろいろな動作といろいろなポーズ。
無為になると、わざわざ動作やポーズは、作らない。自然のままで、高レベルの武術と武道を表します。格闘技も同じです。
こういうことは、いつでも気功と武術の中で、話していることです。

実際、OSHOの本の中では、こういったことを強調しています。
OSHOの強調は、主に、こういった考え方について言葉で説明しています。これらの言葉は、解る人には、解りますが、解らない人は、解らない。
もし、私たちが、気功や武術の練習をした時に、一定のレベルに達していないとすぐに解ります。要は、実際にそういうことが、理解できる悟りのレベルにあるか?悟りの心が、あるか?です。毎回の授業でも、お話していることです。

第4は、OSHOの基本的な考えは、主に弁証法です。
昔、ドイツのへガールの1800年代マルクス時代の哲学家です。
弁証法は、OSHOの本の初めから終わりまで、一貫して出てきます。
中医学の陰陽の中で、老子と孟子は、大昔からこういった考え方を持っています。

もちろん私は、中医学と新気功理論の中の、陰性物理学の中の一番初めの、三大規律で紹介しています。OSHOの本の中に書かれている主な内容については、ほとんど、指導員養成コースの授業の中でお話しています。
私のOSHOの話を読んだ、生徒からの反応も多く、OSHOのHPや本を私に紹介したりしました。それらを参考にすると、OSHOは、仏陀とかキリスト教でも、臨済宗とか老子でも、同じように結構良く言っています。もちろん、自分の解釈の方法で、解釈しています。似ているものは、たくさんある。
OSHOに対する世界の評価もさまざまです。

良い評判のものは、若い人の心を動かすとか、皆を悟りの道に案内するとか。
すごく勇気ある人とか言葉の魅力とか。
悪い評判のほうは、アメリカから追放された団体とか。
もし、こういうことが真実であったら、将来、こういうことは、少し気をつけると思います。
なぜなら、講演とか話すことと実際の行動は、統一でないといけない。
特に精神世界、禅師ということ、仏教のことは、自分の身体で証明する。自分の人生の全てで、表す事ですから。だから、こういう禅のことをやるときに社会や政府とは、一般的にぶつかることのないようにというのが、原則です。

ですから法輪功は、私は、賛成しない。
修業的な言葉としては、全部が、悪い言葉ということは、無いと思います。
でも、現実的な行動は、どうか?
昔、日本でもオウム真理教が、ありました。
学説としては、若い人の心を捉える良い言葉が、あったかもしれない。
でも、現実の行動は、どうだったか?
実際の行動を良く見たら、解ると思います。

なぜ、この話をするかというと、OSHOを否定するとかじゃなくて、ただ、世界各国の評判は、さまざまなものが、ありましたから、私たちは、少林寺のことを今、習っています。
こういうことは、ただ知識だけのものでは、無いですから。
人間性や人生の目的や人間の精神性といったことを目指しています。
世の中からの評判や社会生活の中で気を付けるとか。

だから、こういう面で気を付けないと一番いい学説でも、最後、いい結果は、出来ないと思います。
どんなにいい学説を唱えても、実際に、違う結果が、出てしまっては、
駄目だと思います。

今、少林寺の場合は、日常生活の中で禅を表す、生活禅を提唱していますから、日常生活・社会生活の中で禅を実践する、悟りの状態になるということ。
そうすると当然に、周りの環境と合わせる。対立は、しない。

評判の中で、フリーセックスなどが、問題になったようですが、もし、そういうことが、真実であると、社会的なルールという点で、団体として、修行としては、あまり勧められない。
個人としては、いいですけれども。

チベット密教もこういた考え方がありますが、考え方と個人の修行は、皆さんそれぞれの考え方が、あるので、それは、それでいいですけど、団体として、組織としては、良くない。
団体として、組織として、こういうことが一緒になると、たぶん、社会で受け入れられない点が、あると社会全体への影響や反発などが、生じて良くないと思います。

少林寺の場合は、私は、いつでも、天地人合一で、環境に合わせる。ということを言ってきました。人間の精神と肉体と理想状態。でも、人間は、社会や環境の中の一部ですから、周りの人が、違和感を感じたり、嫌悪感を感じたりするのは、良くないと思います。
だから、周りの環境と合わせることが、必要です。なぜなら、私たちは、社会の中で生きているからです。必ず、周りの環境と接触しています。だから、周りの環境と合わせることが、大事です。 一人では、誰も生きていけない。

私は、こういうことを話すときに、きれいな言葉とかは、無いですけれど、地味な言葉かもしれないですけれど、少林寺は、1500年の歴史から誇りある、禅の精神、禅の教えを現代も世界中に伝え続けています。その中にいろいろ、個性は、ありますが、人間としてプラスの学説を唱え続けてきました。社会的に変な行動は、無いです。

少林寺は、昔、軍隊もあるし、武僧もあるけれども、周りの人と勝手に戦うとか、殺すとか、といったことは、一切無いです。逆に、周りの人の平安とか治安を守るためのものですから。

今、この話は、OSHOは、どうかということではなくて、ただこういう評判にならないように、社会の意識と合わせながら、日々修行をしていくことを、私たちは、気を付けていく必要があると思います。


【OSHOの話 前編】2005.09.08

今日は、現代の禅師ともいえるインドの仏教哲学者・思想家OSHOの話をしながら、禅について考えてみましょう。
私は、OSHOさんのことは、よくは知らないですが、
私の生徒の中には、結構、OSHOの本を読んだり、関心を持っている人がいるからです。
私も、10数年前に中国語に翻訳されたOSHOの本を読んだことがあります。非常にわかり易く、うまく説明していました。OSHOは、いろいろなところでたくさんの講演をしたり、著書も500冊以上といわれています。この中の1冊でも、その中には、OSHOの基本的な考え方が、至るところに表されていました。

この本の題名は、静かな心「静心」〜喜びの芸術〜、中国語で訳されたものです。
前書きの中に、このように書いてあります。
少林寺の禅の話をするときに、本当は、あまりOSHOの例は挙げたくない。やはり、
少林寺のものとOSHOのものは、どっちでも違うものですから。私もOSHOのことを全てわかっているわけではないです。ただ、ここで学んでいる生徒の皆さんは、少林寺のもの以外にもいろいろ興味を持ったり、勉強したりしていますから、皆さんが、少林寺のものを身に付ける手助けとなるように、OSHOの話から、少林寺のものと結びつけて、どう解釈したら良いか?理解を深められるように、今日は、お話しています。

少林寺は、同じ仏教、禅のスタートのところです。
少林寺のものとOSHOのものは、まったく同じではありませんが、非常に似ているところが、ありビックリするくらいでした。私が、授業の中で教えている、新気功理論の中でも、気功の中でも、良く似ているところがあります。

OSHOは、著書の中で、第1に、人間は、仏教を習うことが、必要である。
と説いています。なぜ、宗教を学ばなければ、ならないのか?
それは、人間の生きている間に、使う脳の無限の広さの習得のため。
子供時代から、人間は、生活の中で、決められた社会のルールに従って生きなければ、ならないと教えられて育ちます。つまり、脳の意識に、制限のある、狭く、集中で、浅い部分で生きています。
しかし、人間の脳は、もっと広く、深い、無限の宇宙生命と同じです。
これが、本当の自分、本質の自分と言われるところです。

私の新気功理論によると、人間の意識には、表層の意識(第1層)と無意識(第2層)、潜在意識(第3層・・・)があります。それは、例えれば、ピラミッド型のように、表層意識は、狭く、集中で、小さく、段々、下に深い意識層になると、広くなっていきます。ここが、潜在意識と言われるところです。
一番下の意識は、第6層の意識とよばれ、動と空の意識です。
宇宙全体の意識と人間の本性の意識とが、完全に繋がったところです。深層心理学や超心理学で、人間の意識構造や環境や宇宙との繋がりが解明されてきました。

静功練習の目的も深い入静状態に入ることで、人間の深い本質的な部分と触れ、そうすることによって、潜在的に眠っていた本来の能力を開花させることが出来るのです。
中国の話、元神は、後天的な知識と人間の悩みや苦しみなど一切の煩悩や欲望などは、無くなります。これについては、私は、指導員養成コースの入門時、毎期生にお話しています。

第2に、どのような方法で、狭い意識から広い意識、深い意識に入っていくか?をいろいろと例を挙げて
説明しています。
OSHOは、その方法のひとつとして、ダンスのようなものを取り上げています。
頭でダンスを覚えてするのではなく、体でダンスを覚え、だんだんと頭で考えることは、いらなくなります。これは、ある意味、私達のやっている気功や武術の練習によって、段々と内部の力や、内面の心、精神のもっと深いところに入っていくということに似ています。

少林寺の場合は、もっと深く禅の意識まで達するような、修行方法です。
だから、OSHOの話は、他の人より、もっと激しい方法を用います。
体を動かす、心身統一の状態で動く。
少林寺の場合は、武禅如一、武術の激しい動の体の動きの中に、禅の静かな心を表します。
少林寺の武術は、禅を表すひとつの方法です。
もし、OSHOが、少林寺の気功や武術禅のことを知ったら、きっとびっくりしたと思います。気功のことを知っていたら、きっと、もっと気功についてOSHOは、たくさんの例を挙げて説明したでしょう。でも、気功に出会わなかったので、彼は、ダンスとか、他にも身体を使った方法を沢山紹介したのだと思います。

だから、私達の学んでいる少林寺の気功や武術は、もっと深く、わかりやすいということを、皆さんは、良く理解してほしいと思います。人間の深いところ、まだ使っていない脳の深い、広い世界に入る。
実際は、入静の方法にOSHOは、激しい方法を使っています。
もちろん、激しく肉体を使うことで、頭は、空っぽになるからです。
もともと、少林寺の場合は、断食とか、多少苦しい修行法を行いますが、これらは、私が、みなさんによく勧める修行法です。みなさんの心が、よく悟りになるように、
今日は、2つのことをお話しました。

次回は、この続き、3つ目の話をします。
お楽しみに。
【禅とは】2005.09.01

長い年月により、日本でも、中国、現在のインドでも、また他国やアメリカでも禅の解釈には少し違いがあります。最近、20年前に出版されたOSHOのある中国人が翻訳者した書物を再度読み直す機会がありました。OSHOは宗教の哲学者として非常に賢く、才能がある方だと思います。
宗教としては人間の精神と心の解釈あるいは学問として。
OSHOは優秀な宗教家です。
今も昔も、それぞれ宗教の特徴があり、研究も進んでいます。

禅は少林寺発祥です。
禅の立場は、先輩方はすでに指導員養成コースの授業でご存知でしょう。
私が指導する新気功理論の中の健康システムは禅の立場は理解していると思います。

禅は非常に重要なもの。
ある意味すべてではない。
あくまでも人間の心と精神のひとつの状態であります。
仏教修行のひとつのレベルとか、新気功理論の現在の中に、禅は人間の将来理想の身体・理想の精神の中にこそ禅は宿ります。
「人間の心の最終目標は、禅の状態」
悩みや精神の迷いは、仏教から見て解明できます。心が本来の状態でない場合には、禅に戻ります。
これは、あくまでも今世の自分の精神の安定にすぎません。

しかし、人類としての全体的な素質はそれだけではないでしょう。
新気功理論の中では、哲学・概念(宇宙から人体)本当の哲学的に動の本来はなんですか?
人間の本質はなんですか(人体生命の謎について)?と言うことを取り上げていきます。
宗教と科学は長い間対立していました。
このふたつを統一したとしたなら、地球の人類はもっと進化してきたのであろうと思います。。 
根本的に生老病死の問題は解決する。そういうことです。

その中で、人間の精神としての方法は、現在も生きているところは「禅」というこもあります。
でも、人間の修行はそれだけではなくてただ精神安定を望むだけではなく、人間の肉体でも精神でも素質でも全体的な質的なレベルで考えるべきでしょう。
虫のレベルから人間のレベルまで、それくらいの練習が必要。
世の中の知らない世界。

もし、新気功理論(※1)の内容をしっかりと把握することができたら、その中に、禅道及び潜在能力不思議現象の本質を科学的に説明しているということが、皆さんにも解っていただけると思います。
将来的にも発展していけることでしょう。

(※1現在、指導員育成コースで指導しています。興味があればまず説明会に来てみてください。講座の詳しい内容を私が直接お話ししています。皆様とのご縁に感謝します)


【禅とは】2005.08.25

今まで連載少林寺の禅では、決まった形の禅の内容と
禅の修行方法など、理論的で少々硬い内容のお話してきました。
今回は、調度、先日アメリカから戻ったばかりですので、
そこで感じたことを交えながら、生活の中の今生きている禅、
現代における禅についてお話したいと思います。

今日は、「禅とは」についてお話ししましょう。
前回の少林寺の禅では、現代に禅を伝えた達磨大師など歴代の
禅師の厳しい性格が、あったから禅は、現代、世界的な伝承を
果たすことが、出来たと伝えました。
しかし、この禅と性格ということについては、必ずしもイコールでは、
結ばれません。
例えば、禅の心を持っている人、修行で禅の悟りを得た人は、必ず
同じ性格だということは、ありません。ニコニコした性格の人、穏やかな性格の人
、厳しい人など様々な性格の人が、いるでしょう。
お寺の中では、十八羅漢ということがあります。もっと多くて五百羅漢ということも
あります。このように羅漢は、ひとつの側面、ひとつの顔だけではなく、様々な面を
持っています。これらは、現実のことです。
歴史の中の禅師として、生前の達磨大師の姿が、よく知られていますが、
その後に続く禅師の性格もそれぞれに違っています。

例えば、ある禅師は、政府の官庁の前の道路に寝転がって、服装も気を付けない。
靴も履かない。見た目は、ぼろぼろの格好です。でも、その人は、実際、悟りを得た状態。
頭もいい。その一見ぼろぼろの禅師は、ある時、更に全国の人々をびっくりさせたことが、ありました。
それは、当時大変厳しいと評判の管長がいた、あるお寺を寒い冬に訪ねた時のことです。
とても、普通のお坊さんでは、想像も出来ないようなことがありました。
そのお寺の中の仏像は、木で作ったものが、多かったので、その悟りを得た禅師は、
なんと仏像に火を点けて、暖を取ったのです。当然、厳しい管長からは、一体何事だーと大目玉を食らいます。その寺の僧たちは、皆、びくびくしていますが、この禅師は、
まったく動じません。そして、管長に平然と答えます。
「その仏像は、仏教の神として祭られていますが、
しかし、今、私が火にくべているのは、ただの木です。」と答えました。

禅宗の中に「全てのものは自分の心から」という言葉があります。
ひとつの「もの」として、名前を付けるのは人間です。
無から、意識して名前を付けて初めて、ひとつの「もの」として認識するようになる。
と説明されています。

このことだけではなく、
禅宗は、達磨大師から流れ始めて、六祖に伝承され、
その後、曹洞宗のような中国の他流派など、多岐に広がりました。

それぞれの流派は、悟りの方法と悟りに対する解釈が全く違います。
第六祖の中に、第六祖の恵能神秀ふたりの考えも、皆さんご存知のとおり違
いっています。達磨大師の禅は、実際は、二祖から進んで、六祖から中国の各宗派へ広まり、
その過程で開祖の達磨大師の禅とは全く違うものになっていきました。
中国からの禅です。

特に少林寺の禅は、周囲50キロの範囲の中に、仏教、道教、儒教がみんな集まり
中国でもこういった場所は大変珍しい。

少林寺の門の中に、達磨大師の禅は、少林寺から、中国全土へ、そして世界各国へと
伝わる中で、段々と変わっていきました。歴史からの禅宗の中の考えと悟りの方法と悟りに対する
解釈も違います。
共通の禅の解釈は、具体的に言うと、禅の細かい状態はなんですかとこだわらない。
禅のひとつの大きな道はなんですか。そちらが一番大事なところです。

そうでないと、
最終形態はなんでしょうという議論は意味がないものになると思います。

当然にそれぞれの禅には流派・解釈があります。
これは、他の宗教でも同様です。
あるいは、仏教の他の宗派とも同じ。
それぞれの宗派には、開祖がいて歴史があります。
その中にも、当然いろいろな学問や学術的な考え方があります。 
それにこだわりすぎると、どんなに理解しようとしても、最終的には自分の修行の道や最終目標とはかなり
大きな隔たりができ、意味のないものになります。
中国のことわざに「絵の中のせんべい」という言葉があります。
(日本のことわざに直すと「絵に書いた餅」です。)

実際はどうか。絵と現実のものは、全く違います。
ですから、今は正しい修行が大切です。

もっと広い意味から、高い立場から禅を見ると、全てわかります。


【少林寺の禅】2005.08.18

禅は、今、全世界で広く知られています。
これは、長い歴史の中での、たくさんの禅師たちの努力の結果です。
もともと禅を勉強するとか、悟りの人は、解っている事ですが、禅は、禅である。もともとの存在ですから。
本当の場合は、禅は、改めて話す必要は、ありません。なぜかというと禅は、人間が、本来持っているものですから。
でも、もともと本来持っているものに、修行や練功と、禅のことを話す必要が、あります。
禅師の教えにより、人々は、禅について解ります。
だから、禅の歴史・道の歴史が、あります。道もそういうことです。
禅も道も、もともと宇宙に存在するもの。話す必要は、ない。話しても説明は、出来ない。
でも、仏陀とか、達摩大師とか、六祖を始めとする歴代の禅師による悟りと教えによりだんだんだんだん禅は、広まりました。禅の歴史は、こういった人々の積み重ねてきた歴史であるとも出来ます。と同時に、禅が、自然に必要とされ、自然に広まったとも言えるでしょう。
これは、禅の世界の中の道(どう)です。

実際にこれは、どういうことかを考えてみましょう。
例えば、達磨大師は、昔インドから中国に来ました。しかし、当時、誰も達磨大師を知らないし、誰かが、達磨大師を中国に呼んだわけでは、ありません。中国政府も呼んでいません。
中国政府が、呼んでいないのに、なぜ、達磨大師は、中国に来たのでしょう?
これは、やっぱり、達磨大師の使命とか、信念とか、自分自身の内側からの思いや考えから自然に中国に来たのでしょう。

達磨大師は、はじめは、中国各地を転々としましたが、最後は、少林寺に辿り着きました。
少林寺に入っても、はじめは、皆さんとなかなか考えが合いませんでした。
そこで、九年面壁をして修行をしながら、チャンスを待っていました。
そんな達磨大師をみて、当時人々からは、随分執着のある人だと言われたかもしれません。
しかし、周囲の人々が、自分に対して何を思おうと、達磨大師は、自分自身の信念を貫き通します。
そして、最後は、達磨大師のお経によって伝えた禅は、中国全土へと広まり皇帝からも厚い信頼を得ました。特に弟子の二祖慧可も全国を講演して歩き評判となりました。達磨大師も全国の国師となって禅を広めました。仏教のリーダーとして国師となり、禅を全国に広めたことは、実際、自然の気力があったからです。一生懸命な努力で、一生懸命に広めた結果です。
皇帝からの評価で、全国の国師となったのも自然な結果です。
しかし、達磨大師に対して、随分と野心がある人だと責める人もあるかもしれない。
達磨大師が、最後、亡くなった原因は、同じインドの高僧による毒殺と言われています。
(これについては、少林寺の秘話をご覧ください。)
達磨大師は、相手に非常に厳しかったので、相手は、自分の面子を潰されたと思い、達磨大師を殺してしまったのです。

この出来事を、ある人は、達磨大師は、なんて性格の悪い人かと非難するかもしれない。
もし、相手に対して厳しく怒ったりせずに、寛容であったならば、命まで落とさずに済んだかもしれないのにと思うかもしれない。
でも、私の思っている達磨大師像は、まさにこれこそが達磨大師です。
何十年間も中国で、自分自身の信念を貫き通し、布教をした。執着では無く、野心でも無く。
最後は、同じ信念で、相手の間違いを厳しく正した。これは、相手のために行ったことです。
ですから、達磨大師のこういう性格だからこそ、世の中に禅は、広まったのです。
日本では、これに対しては、なんとなく間違った理解をしているところがあるように思います。
変な話は、他人と喧嘩、戦うところから生まれたのです。

今、私は、いろいろな人に対して、話も全然気を付けないで、何でもストレートにいう
禅は、禅の本質で解る。でも、この中に努力が、必要です。この努力は、逆にその人の悟りです。
この悟りは、自分のためにではなく、相手のためならば、自分の命さえも投げ出す覚悟。
これは、達磨大師の本質です。ガンジーや空海もそうです。
たぶん、皆さんのまわりで、日本でもアメリカでも、たぶん、こういう人に時々会うことが、出来るでしょう。
その時に、もし、その人に対してただ野心や執着と思ったら、たぶん、永久に本当の禅、本当の心は、解らないでしょう。禅を勉強しても、その深い本質まで理解できずに、ただの楽しみのためだけとなるでしょう。

達磨大師も仏陀もガンジーも空海も、自分自身の楽しみのために、その人生を生きた人ではありません。その命の全ては、世の中の他人のために、本当に正しいものを伝えるために、努力しました。当然、皆さんお坊さんですから、自分自身の人生の他のものを全部捨てて、家庭も捨てて、個人も捨てる。
そういった、歴代の禅師の努力の結果、今のような禅や仏教が、広まり世界中に伝わりました。
現代、これらの禅や仏教の教えを学ぶ者は、これらを人類のために歴史に残すため、自己を捨てて生きた人々に対して、感謝の意を持って、教えをありがたく学ばなければならない。

全人類の財産といわれる歴史を残した人は、すべて、そういう性格の人です。信念を持ち、個人を捨て、世の中のため人のために命の全てを捧げた人です。
ですから、もし、みなさんが、禅でも道でも、そういう面で興味を持ったら、禅の内容や禅の歴史に流れる精神も合わせて意味のある勉強を続けていって欲しいと思います



【禅と道】:2005.08.11

アメリカで気功のことや禅のことなといろいろ聞いてきました。
ちょっと調べてみたところ、現実的には昔は禅だったが今は道です。
私は、全米気功協会のトップの方の考えを聞いてみました。
禅は普通の仏教であり無ということです。
ただ、話しは世の中の全部はなくなる無のことではなくて、
あるということでした。全体では道という考えのものですから。
禅と道に対してはなんとなく表面的な感じがしました。
ニューヨークで道教気功の学校を作る人は、自身も25年以上の
期間で気功を学んでいて結構技術レベルも高い方にあります。
太極拳や気功演舞の審査員もつとめるほどです。
DVDや本なども数冊以上の出版もしました。
私たちの表演も誉めてくれましたが、実際、本人は禅と道との
関係などで悩んでいる状態でした。
夜のパーティーでお話しもなんとなく聞きました。
何十年か前にひとりの日本人が禅を教えたことがあるそうです。
その時には、心が無の状態は禅という話しだったそうで、
その時の教えから心は対立している状態のようでした。私は、
こういうことは禅の話しと道の話しは、ただ理論的知識的にある
だけではないですよとお話ししました。例えば、もし禅の体験をした
ことがなければ禅の話し確かに非常に難しいでしょう。あるいは道の
状態に対しての理解も同じく、禅や道に対して本当にわかることが
できなければ、自然にこのふたつのものは概念感になります。
逆に分裂のことは、仏教から禅ということ、道教は他からですから、
この二つは歴史から団結の場合もありますが戦いの方が多かったのです。
でも、少林寺の禅あるいはそれ以外でも私の考えは、
禅の話しと道の話しは、ただ一般的に概念や修業方法だけのものではなく
最後の状態のことです。実際、ニューヨーク創立の学校運営者に聞いた
ことがあります。あなたの話しでは道だけ、何の為に道の気功例えば
道教気功の最後の状態への修行をするのですか?
その人は円満回答はできませんでした。
これは当然に禅にも言えることです。もし最終目的あるいは
最高の状態になるとどういう状態ですか?たぶん禅の気功でも
道教の気功でも最後の状態は同じでしょう。なぜ、同じでしょうか?
例えば禅の最後の状態とは、はっきり言って言葉での表現はできません。
だから、禅宗の有名な言葉は「不立文字」今、言葉で表現はできない。
もし禅の状態を言葉で表現ができたら禅じゃない。老子の道も同じですよ。
私たちの理解の概念の道を考えたらそれは本当の道じゃない。
道も言葉で表現はできない。できたら道ではない。
こういうことから実際は禅と道は同じものですよ。ただ、出発点としては
禅は主に人間の生命、精神や心に向いている話しです。道は主に自然の規律
あるいは宇宙構造とか自然存在の角度からスタートします。それだけです。
始めのスタートするところが違います。でも最終は同じ。
新気功理論の新病気理論の中の多層次意識の第六意識は禅の状態です。
あるいは老子の道の状態でしょう。だから最後に心身統一や
人間と宇宙の統一というのは、禅あるいは道の状態であり
禅と道の統一でしょう。 こういうことは本当に理解できたらわかりやすいものでしょう。
私の考えでは理論的に本当の禅はそういうところです。
山登りで東からスタートしても西からあるいは北からスタートしても
山の頂点には東からとか西からとかという区別はないですよ。
だから本当の禅もそういう状態です。

【悟りになるために】:2005.08.01

悟りになるための修行がなかなか進まなかったり、
思う通りにいかない時の原因と越える方法のお話しです。
悟りに近づこうと少林寺の禅を学んでも、
苦しさから次に開拓できないときは一般的に次の原因があります。 第一に、本当の悟りは自分はまだ解からない。
悟りとは、皆それぞれが持っている心の本体ですから。
普通、人は自分の感完と予防の満足のために忙しいです。
そうするとその心本体にはいろいろと埃は付いています。
長い間で埃が付いているということは本来の顔は見えません。
でも、私たちの心の中が一番単純で一番解放されている
元々の状態の時には、自分の手相みたいにはっきりと見えます。
だから、もしこれが見えて自分の本当の心の状態や
悟りが解かったら、もっと高レベルに入ります。 第二は、例えば少林寺の禅を習うのに対して、
知識や信頼感が足りない時です。
そうすると自分の心の中のことは師に対しても
言わないでしょう。実際は悟りの修行方法は
すごく難しいことではないです。
でも、仏教では人間の業は結構深く重いものですから。
そうすると意識の上に仏教の三毒−貪、瞋、痴−は、
習慣的にあなたの悟りに抵抗するでしょう。
もしそういう状態になったら、瞑想の練習の時に
どの様に対応するか、先生とよく話します。
そうでなければ、病気の回復も修行も進まないでしょう。
よく話すことですが、やはり少林寺の修行を本当に
最後までできるということは、本人の人生観の問題もありますよ。
第一で話した埃をとるということは、すべて人生観で決めます。
だから、これはただ修行の方法だけの問題ではなく、
そこから変わることは必要です。 そしてこれらをどの様に乗り越えるか。
悟りになると、まず乗り越えることは必