少林寺は山奥にありますので、交通も不便です。現在でも行くのに時間が結構かかって大変ですが、昔は想像を絶するものがありました。しかし、歴史の中で、遠いことは問題とせず、日本から多くの人々が少林寺に留学しており、たくさんの物語も残っています。日本の少林寺拳法の指導者である「宗道臣」大和尚も、1940年代に少林寺で拳法を学んだことがあり、このことを記念して「日本少林寺拳法開祖宗道臣大和尚記念碑」と刻まれた記念碑も立てられています。私は少林寺の管長から聞いたのですが、日本の少林寺拳法の関係者はよく少林寺を訪れるのだそうです。こうした最近の話ばかりではなく、歴史上でも、数多くの日本人が少林寺に留学しています。
少林寺には六百年前に立てられた、「息庵和尚尚道行碑」という記念碑があります。 当時日本の山陽地方の但州にあった、正法禅寺の住持(じゅうじ)であった「邵元(しょうげん)」和尚という人がいました。「邵元(しょうげん)和尚」は元の時代(=鎌倉時代)1327年に、海を渡って少林寺に留学し、全部で21年間少林寺で学びました。そのとき、少林寺の「息庵和尚」と非常に深い友情で結ばれていました。
「息庵和尚」は当時の管長であった「菊庵照公和尚」を師としていたので、「邵元(しょうげん)和尚」と「息庵和尚」は共に仏の道を学び、武術を練習しました。「息庵和尚」は「菊庵照公和尚」の一番弟子であり、「邵元(しょうげん)和尚」は「菊庵照公和尚」の書記(=秘書)をつとめており、二人は師の仕事、つまり管長の事務を共同で手伝っていたのです。
日本人僧の「邵元(しょうげん)和尚」は本当の仏性(ぶっしょう)を持った人で、穏やかな良い性格だったので、少林寺の僧侶達から尊敬され好かれていました。「邵元(しょうげん)和尚」の法号は「法源」だったので、僧侶達から「古源上人(こげんしょうにん)」と呼ばれていました。管長の「菊庵照公和尚」が亡くなった時に、「邵元(しょうげん)和尚」は非常に上手な古代中国語で、師の死を悼む言葉を書きました。そして、その言葉、つまり「菊庵照公和尚」に対する賛辞と、師に対する哀悼の気持ちを石碑にも刻みました。
西遊記にも出てくる、三蔵法師はインドに赴いて仏教を学びましたが、この文章は、そのときの気持ちと非常に似ていると思います。この石碑は、少林寺の塔林の中に、今も残っています。私達、全日本少林寺気功協会が少林寺を訪れて、塔林へ行くときは必ず、「邵元(しょうげん)和尚」の石碑にも訪れています。
その後、「息庵和尚」が亡くなったとき、「邵元(しょうげん)和尚」はすでに少林寺を去り日本に帰国して、長年たっていました。「息庵和尚」の弟子は、当時の日本が遠かったにもかかわらず、「邵元(しょうげん)和尚」を探し出し、「息庵和尚」を追悼する碑文を書いてくれるように頼んだのです。「邵元(しょうげん)和尚」は兄弟子が亡くなった知らせを聞き、非常に悲しんで涙を流しながら追悼文を書きました。そして、この追悼文は、少林寺で非常に高い評価を得た有名なもので、今でも生きて多くの人に伝えられています。
戦前の日本に留学したこともあり、中国でも高く評価されている文学者「郭沫若(かくまつじゃく)」は、この文章を「この話しは非常に感動的であり、日中友好の見本とも言える、良い話だ」と高く評価し、「邵元(しょうげん)和尚」を」記念した碑文も残しています。
また、他の日本人僧についても、お話したいと思います。「大智禅師」は「邵元(しょうげん)和尚」の後の時代の人ですが、このお坊さんは少林寺に13年間留学して、仏教と武術を学びました。武術の中でも特に棒術を身につけ、少林寺の中で武術の腕比べをしたとき、少林寺のルールで勝って日本に帰国しました。「大智禅師」が帰国したとき、ちょうど侵略者が日本の北方を侵略しようとしていたので、菊池大将を手伝って軍事訓練を行い、日本を守りました。そのとき、少林寺の武術は日本の民間にも伝えられたのです。その後、中国の明の時代の太祖「洪武」年間に、「徳始和尚」は「大智禅師」の遺言によって、少林寺に留学し、22年間仏教と武術を学びました。「徳始和尚」は帰国前に、自分の先生の「淳拙禅師(じゅんせつぜんじ)」のために碑文を作りましたが、それは今も少林寺に残されています。
このように、少林寺には色々な日本人僧の物語が残されており、日本と少林寺の交流は武術および仏教の双方に及んでいます。そして、初めて交流があったのは、宋の時代のことです。それから800年来、途絶えることなく、ずっと続いてきています。日本と中国は様々な分野で交流がありますが、少林寺もまたその一つだといえると思います。