心がきれいの人は聖賢の人の本を読んでも、色々な技術を習っても、それを正しい方向へ使おうとします。もし心がきれいでないのならば、身につけた知識と技術は形骸化したものです。外見はきれいに着飾っていますが、中身がないのと同じで、逆に多くの理由をつけて自らの間違いを決して認めようとはしません。
勉強して知識を得ることや修行して色々な技を身につけることは、最終的には自分自身の徳の修行であると言えます。もし心が正しくなければ人類に社会に対して使ってもそれは意味がなくなってしまうでしょう。
 ある人は知識や技術を身につけて、名誉や利益を得たいと思っています。正しいやり方でそれらを追求するのであれば、それはそれでも良いと思います。ただ一番いけない事は、知識と技術を変に使うという事です。
他人から自分の間違いを指摘されないように、知識と技術を利用して自分の間違いを指摘されたら言いくるめて正当化しようとする事は間違った方向で知識と技術を使っているのではないでしょうか。
 このように使われる知識と技術は社会にとってもマイナスになります。例えば少林寺の技術に限らず全ての事を悪い方向に使うこともそうです。だから何の事を習得しようとしても、先に心の方を正しく持たなくてはいけません。