少林寺は禅宗発祥の地で、歴史のある文物や遺跡がたくさん残されており、静かで景色も美しいところです。その一方で、少林寺の武術、すなわち少林拳も有名で、ある意味仏教より有名です。これはどうしてでしょうか?普通、お寺は静かなところで、僧侶は慈悲の心を持つものです。なぜここに武術が生まれ、1500年の間武術を練習してきたのでしょう?どうして僧兵はいたのでしょうか?仏教の教えと武術はどこでつながっているのでしょう。

ダルマ大師が少林寺に来た時、達磨洞というところに九年間「面壁(めんぺき)」、すなわち壁に向かって座禅を組みつづけました。インド人であるダルマ大師は、何もない山の中でどうやって生活していたのでしょうか。山中に自生する果物や川の水、降り積もった雪を口にしていました。それと同時に山中に住む虎や狼、猿、など様々な動物とも戦わなければならなかったし、山賊などの人とも戦わなければなりませんでした。毎日座禅を組んでいると、筋肉が衰弱し、血行の循環も悪くなるし、疲れやすくなります。だから、座禅を組んだ後は、身体を動かして運動し、心身の健康を図るようにしていました。生きぬくために、そして野生動物や山賊に対処できるよう、ダルマ大師は常に洞窟の外に出て武術の練習をしていました。しかし、武術の練習をしようにも、山の中ですから場所もそんなに広くないし、もちろん器械もありません。だから、ダルマ洞の前のけっこう狭い場所で行い、山にある木の枝を折って、それを武器として練習していました。野生動物や山賊の急所を研究するために、虎や龍、猿など野生動物の動きを真似た練習もしました。

またダルマ大師の弟子の慧可(えか)は、前漢の伝説的名医である華佗(かだ)の著書「五禽劇(ごきんげき)」を元にして、「羅漢十八手」という武術の型をつくりました。それから更に研究を続けて、「心意拳(しんいけん)」と「羅漢棍(らかんこん)」という型をつくりました。ダルマ大師は、嵩山の上の五乳峰という狭い場所で練習していましたから、その技のスタイルは「拳打臥牛地、出手一条線(=拳は牛の体長ぐらいの所までで打つこと、拳は必ず同じ線上で出すこと)」という特徴を持っていました。その後、ダルマ大師は弟子達と一緒に練習し、「達磨易筋経(だるまえききんけい)」という本を書き上げましたが、これは現在にも伝えられています。このようなことから、ダルマ大師は禅宗の創始者であるだけではなく、武術の創始者であるという人もいます。

少林寺の僧侶は、上から伝えられたこのような話を聞かされています。しかし、「少林寺志」という本には、少林寺の武術は「バッダ和尚」が始めたという記載があります。北魏の孝文帝の時代、西暦495年にインド人僧侶「バッダ」の下に、武術ができる少年達が僧侶として入門しました。その中の一人である「慧光(けいこう)」は当時12歳でしたが、優れた運動神経を持ち、ジエンズ(=バドミントンの羽根球のようなものを、地面に落さないように足で蹴りつづける遊び)が500回もできました。普通の人は数回で終わってしまうのですが。この「慧光」は少林寺で初めての武僧になります。

また、もう一人は、バッダの弟子で「僧稠禅師(そうちゅうぜんじ)」と言います。少林寺に入ったばかりの頃、身体が虚弱なために、他の僧侶達からいじめられていました。「僧稠」は決心して、武術の練習を始めたのですが、夢の中で金剛菩薩から教えを受け、また本人も努力したため、最後には力も非常に強くなり、高いレベルに到達しました。伝説によれば、二頭の虎がある時食べ物争いをして闘いはじめたのですが、「僧稠」は小さな杖一つで虎二頭を引き離して追い出したということです。こうしたバッダ和尚が少林寺武術の創始者であるという話しもあります。

少林寺武術の創始者は誰かということについては、諸説あり、これがそうだというものはありません。少林寺の僧兵は数多く、これまで二千名がなったと言われています。大雄宝殿の前にある、唐代に太宗「李世民」が自ら筆を振るった「太宗文皇帝御碑」は、僧兵が盛んであったことの証拠だと言えます。唐が建国される際に、少林寺の僧兵13名が太宗を助けて活躍した話は、映画「少林寺」でも描かれているので、皆さんもご存知のことと思います。その時から、少林寺の武術はさらに盛んになり、中国全土で有名になったため、各地の有名な武術家が少林寺に集まって練習するようになりました。