少林寺の文殊殿には北側に不思議な石があります。その石から十数歩離れて見てみると、頬骨が高く、ほおにひげをたくわえ、くぼんだ眼に、濃い眉毛という顔立ちで、はだしで座禅を組んでいる人の姿が浮かび上がってきます。さらには、身につけた袈裟までもはっきりと見えるのです。この石は、歴代の皇帝を始めとする人々によって「達磨面壁石(だるまめんへきいし)」と呼ばれてきました。そして、数多くの文人達がこの石を題材にした詩や文章を作っています。
では、この達磨面壁石は、達磨大師の影が石の中に入ってしまったのでしょうか?
達磨大師が座禅を組んでいる間に石になってしまったのだという人もいますが、はたしてそうなのでしょうか? 達磨大師が初めて少林寺を訪れた時、当時少林寺にいた僧侶達と話しが合わなかったため、五乳峰のchi・you洞で壁に向かって一人で座禅を組んでいました。達磨大師が座禅について教える時、「自分の心を悩ましている外部の事を考えない事。心が壁のように何も考えていない状態になれば、修行の道にはいれます。」と語りました。達磨大師は南インドのバラモン出身ですから、人々は大師の事を「壁観バラモン」とも呼ばれています。達磨大師は自分の心を清浄にし、静かな状態にするため
に、昼間はほとんど壁に向かって座禅を組む事に費やしていました。達磨大師が壁に向かって座禅を組んだ場所は、入り口の狭い洞穴の中ですから、光も入り口の一方向からしか入りません。また座っている場所は、いつも石の前に座っていましたが、洞窟の中は先程も言ったように狭いので、左右も動けません。このようにして、石の前に九年間ずっと座っていたところ、石の上に水墨画のような達磨大師の淡い影が出現しました。この影は、これを達磨大師の影であるとして、後世の人々はこの石を尊び、崇拝するようになったのです。少林寺の弟子達は、これを達磨大師の悟りの象徴であるとし、「霊石」と呼んで、少林寺の宝としてみなして保存してきました。しかし、清朝の中頃に、少林寺の僧侶はこの面壁石が消失してしまう事を恐れて、蔵経閣に保存する事にしました。しかし、1928年に軍閥によって少林寺が焼き討ちされた際に、面壁石は蔵経閣と共に難にあってしまったのです。現在、文殊殿に安置され
ている面壁石は、複製品です。
達磨大師は面壁(めんぺき)九年の後で、弟子達を寺に招き入れ、そして達磨亭をつくって達磨大師の修行の場所としました。またchi・you洞を「達磨洞」と改名し、℃その下に初祖庵(=しょそあん、「面壁庵」とも)を作って、達磨大師が九年の面壁して、石にその影が入るほどの境地に至ったことを記念したのです。
達磨大師は少林寺に戻った後、少林寺禅学の祖となり、それと共に少林寺で学ぶ人達も日に日に増えていきました。達磨大師は数多くの弟子がいましたが、本当に禅の事がわかっているものは「慧可(えか)」や「道育(どういく)」、「尼総持(にそうじ)」「僧副(そうふく)」、「曇tan林(たんりん)」などであると認めていました。そして達磨大師は亡くなる前に、自分の弟子たちの禅に対する理解の程度について「慧可は髄を得、道育は骨を得、尼総持は肉を得、僧副は皮を得ている。(*一番理解が深いのは慧可である)」と評価しています。