人は何のために出家して僧侶になるのでしょうか。前回でも書いたように、僧侶の生活は貧しく苦しいものです。では、中国でも世界でも、昔から多くの人たちがなぜ僧侶になったのでしょう。日本の僧侶の少々違いますが、インドや中国では今でも戒律を守っている僧侶は多いです。少林寺の徳禅大師は「これは一つの信仰であり、高いレベルの信念なのです。」とおっしゃっています。特に大乗仏教の禅門の弟子は、次のような二つの言葉をよく口にします。「苦海無辺、回頭是岸。苦しみにはこれで終わりというものがないが、ものの見方を変化しさえすれば、悟りはすぐそこにある。」と、「放下屠刀、立地成仏。人間を殺す刀を下ろしさえすれば、すぐに悟りを開いて仏の境地になれる。」というものです。このレベルにまで到達できれば、仏教で定めている事に対する違反行動はしなくなります。また、それまでの自分の信念を変えて、仏教を信じるようになります。
 では、「仏」というのは、どう意味なのでしょうか。「仏」は「仏陀(ぶっだ)」の略称で、「目覚めた人」あるいは「智慧のある人」という意味があります。「仏」を信じる人は仏教の中から見て、それは智慧があり、悟りを開いた人ということになり、そのような人はお寺に入って和尚になります。「和尚(おしょう)」というのは、元々は「師尊」という意味です。仏陀は後世の弟子たちから「大覚尊人」あるいは「大覚尊師」と呼ばれていました。「和尚」というのは、元来尊称であり、一定の資格を持った人だけが名乗る事を許されており、人々の見本になるような人がなるものなのです。だから全ての僧侶が和尚を名乗れるのではありません。だから中国では、一般の人々に「和尚」と呼ばれた場合、僧侶は必ず合唱して「阿弥陀仏」と唱え、謙遜の意をあらわします。
 「仏」というのは、一般に言う「神」という意味とは違います。では、仏教はどういうものなのでしょうか。仏教というのは、悟りに至る一つの学問であり、一つの哲学なのです。エジプト、インド、中国など古代文明の総括であり、奥は広いと言えます。よく探求し、実践すれば悟った人になれます。仏教の視点から見た場合、人はすべて仏性(ぶっしょう)を持っています。しかし、充分な修行を積まないと仏性をあらわす事ができません。苦しい修練や一生懸命にした研究を経て修行すれば、様々な雑念や考え方は消えて悟りにいたり「仏」になるのです。全ての人は「仏」になれます。仏教では、「お釈迦さまは悟って「仏」になったが、未来の世界にも「仏」になる人が出てきます。すべての人には、悟って「仏」になる可能性があるのです。」と考えてきました。しかし、修練しなければ、世の中の誘惑や障害から抜け出る事はできず、そうすれば悟りの状態には至れないので「仏」にはなれません。
 さて、今少林寺には六十名余りの僧侶がいます。みな「仏」の境地を目指してやってきましたが、そこにいたる原因はみんな違います。少林寺に入る理由は色々異なっているし、年齢も違います。しかし、目的は同じです。それは、少林寺に入って、自分の精神の解脱(げだつ)と精神の安定を図るというものです。高僧の話によれば、仏教の規則を守り、一生懸命修練すれば、最高の悟りにいたり正しい結果を手にする可能性は皆にあるとのことです。
 自分の修練の方法には、達磨大師がお伝えになった「理入」と「行入」の二つの方法があります。まず「理入」ですが、一つはお経をよく読んで研究して理解し、自分の心身の規範とすれば、真に「仏」の通りでするということです。もう一つ、これは瞑想・座禅といった類のもので、「壁観(ひかん)」です。これは壁に向かって座禅して瞑想して、自分の雑念を全て払って、心の深い所から安楽を求め、極楽浄土に至るということです。
 二番目の「行入」ですが、出家した僧侶は日常生活の中で四つの道徳行為を行わなければいけないというものです。第一は「報怨行」といい、世の中に起こったすべての事を我慢し、苦しい事が起こっても文句を言わず、嫌な気持ちにならないということです。第二は、縁(えん)に従って行うというものです。普通の生活の中で自分の存在を消し去り、自分の存在はないものとし、自分の楽しみや苦しみを一切計算したり感じたりしないというものです。どんな事があっても心を動かさず、意見を言わずそのままの状態でいます。第三は、自分の欲望を一切禁止し、目的も持たず、自分の行動に目的を持たせないというものです。もし、自分の行動に目的があれば、必ずみんなが苦しみます。目的がなければ、みんなは楽しい状態になるのです。だから欲望と目的があると苦しくなります。苦しくて心のバランスがとれていない人は、だいたい欲望が多すぎるのです。だから、僧侶になると自分の欲望を捨てるので、心が落ち着いて、何もなくてもいいという境地にいたり、自分の縁と恩に自然のままで任せる事ができるようになります。第四は、いつでも、どんなことがあっても、仏教の道理の通りに行動するということです。すると、いろいろな悪い習癖もなくなります。これまでに述べた、二つの「入」と四行(四つの行為)は仏門の弟子が行う道であり、行動規範でもあります。僧侶は愛憎を捨て、苦楽をなくし、欲望をなくし、目的をもたずに運を天に任せ、執着せずに仏法のとおりに行動すれば、智慧を手に入れ、悟りにいたることができます。つまり「仏」になれるということです。僧侶はそのために修行しているのです。僧侶ではない私達にこのような厳しい要求は求められていませんが、僧侶になる目的についてわかっていたほうがいいと思います。