欲望が一時満足をしたら、それに対しての興味は薄くなります。例えば、おいしい料理を食べたときに、その前に食べたおいしい料理の記憶は薄くなります。
だから何かをする前に欲望の事を反省し、よく悟り、理解して、心性を安定させることによって自分の行動は正しくなります。ここでいう心性とは本性のことです。
本性の通りで生活するとという事は老子の道とも言われます。
これは仏教でも道教でも儒教でも通じるところがあります。日常生活の中では多くの欲望の中に素朴を選択する事ができません。
食事でも物質的でも強い欲望は理性を失い、自分の判断により抑える事は中々無理です。仏教では「痴」は無明ともいわれます。この意味は自らの治理の混乱、判断を間違えた状態の事です。
自分が何かをやって後悔するということは事前に抑えて、自分の本性の通りに生活すると人生は安定し、行動で間違える事は少なくなります。
まだ欲望を抑えるという事は低いレベルですが、でも禅を始めるのには必要な事であって、このような事から始めないと最後は禅の状態にはなりません。
仏教、道教でも修行があります。修行とは一つは悟りに関してともう一つは抑えることに関してです。だから抑える事は修行でもあり禅でもあるのです。