歴代の王朝の皇帝達はそのほとんが仏教を信仰しており、少林寺を気に入っていたので、よく少林寺へ参拝しました。しかし、長い歴史の中で仏教が弾圧されて衰退した時代もありました。その中で、少林寺では「二武滅法」と「二八火厄」ということが起きました。
魏晋南北朝時代の北周の武帝と唐末期の武宗・李炎という二人の皇帝が、仏教を弾圧して衰退させたのが「二武滅法」で、「二八火厄」は1928年に当時の軍閥「石 友三(せき ゆうさん)」が少林寺を焼き討ちした事件をさしています。
 まず、第一回の仏教弾圧についてお話しましょう。少林寺は495年に建てられましたが、王朝の庇護を受けていたので、寺でかかる一切の費用はすべて王朝から出ていました。そのため、生活に困った人達が競って寺に入って僧侶になったのでした。皇族の中にも仏教を信じる人が増え、中国在来の道教と仏教が非常に盛んになりました。そして、北周の時代、僧侶の数は当時の人口の半分を占めるまでに至りました。当時の都である洛陽の周囲には、1370余りの寺院があったほどです。北周の武帝の第一婦人「李皇后」も剃髪して尼僧になり、その他にいた、5人の妻達も寺院に入って尼僧になりました。その結果、農業に従事する人など、労働人口がいちじるしく減少し、北周は貧窮状態に陥ってしまったのです。当時、還俗した僧侶と道教の道士二名が、皇帝に「寺院を減らして、僧侶を還俗させるべきだ」という提案をしました。武帝はその提案を採用しましたが、その前に皇帝の面前で大臣たちが集まって七回会議を開き、仏教と道教の優劣を競う、論争の場が持たれました。574年にも、同じく論争の場が持たれましたが決着がつかず、最終的には仏教も道教も共に排除すべきであるとの結論が出されたのです。そこで、当時中国全土にいた200万人の僧侶と道士が還俗させられ、寺院や道観(どうかん,=道教の寺院)の財産は北周に没収されてしまいました。その当時少林寺は第一の標的とされ、仏像や建物も破壊され、僧侶達の中には寺を去る者や、山に逃げ隠れた者もいました。
しかし、580年に次の皇帝は、弾圧をしても仏教と道教への人々の信仰がなくならないことを見、社会の安定のために仏教と道教が必要であるとして、弾圧をやめました。そして、破壊された少林寺の再建・復興に尽力しました。